『上海の舞台』についての文詞集



松浦 恆雄 氏 中国古典劇の可能性を探る 雑誌「東方」 1999.7 東方書店


本書は、日本古典芸能の研究者である伊藤氏が、『火鍋子』という中国語・中国文学関係者のミニコミ誌に四年近くも連載してきた中国古典劇に関する考察を一冊にまとめたものである。一九七九年以来、氏が毎年のように見てきた中国古典劇、主に昆劇、京劇、越劇、高甲戯、提線木偶(糸あやつり)などの劇種が取りあげられ、それぞれの演劇としての本質がどこにあるかを一観客の目に映った事実から明らかにしようとした労作である。中国演劇の専門家ではない伊藤氏のよりどころは、あくまで劇場における体験である(ちなみに氏は狂言の舞台にも立つ)。こうした劇場本位の立場からする氏のアプローチが、興味深くないはずがない。
例えば、伊藤氏は上海で越劇の通し稽古を見学した際、クライマックスで主演俳優・趙志剛の目に涙が浮かんだのを見逃さない。氏は「古典劇の俳優が涙を流すほどに感情移入している!」ことにショックを受ける。稽古終了後、演出家にさりげなく「彼は、よく涙を流すのか」とたずね、「めずらしいことではない。気持ちが昂揚するとそうなる」という答えを得る。その答えに促されるようにして、「趙志剛という俳優の資質、志向を、そして彼が演じている越劇という劇種を考えるにあたって、これは重要な問題だ」(77頁)と直感するのである。
実は筆者も、伊藤氏よりはるか以前に涙を流す古典劇の俳優を見、涙を流す方法を書いた文章も読んでいたが、その意味する所について深く考えてみることなどしなかった。しかし、伊藤氏はこの涙から、趙志剛という俳優の目指す越劇とは何か、更には現在中国の古典劇が直面している課題に、趙志剛がいかに向かいあおうとしているか探り当てるのである。
古典劇がその誕生した時代と全く異なる現代において、いかに演劇として生きてゆくか。これはひとり中国のだけの問題ではない。伊藤氏は専門とする日本古典芸能の明治以来の改革の経験を振り返り、日本では結局「何も変える必要がないことを確認した」のだと言う。日本の古典芸能は単に古いから古典なのではなく、「自らの手で『古典化』の道を選びとったから『古典という名の現役』として今も存在する」(171頁)のだと言うのである。
では、中国古典劇はどうか。中国古典劇が日本と異なる道を歩んでいるのは明らかである。それは単に日中両国における古典劇の扱いの相違にとどまらず、古典劇の本来的な性格の差に由来する可能性も大いにある。とすれば日本古典芸能から知り得なかった新しい古典劇の可能性が、中国の舞台に実現しているかもしれない。そう伊藤氏は考えたのではなかろうか。その時、伊藤氏に見えてきたのが、昆劇・張継青の道であった。
伊藤氏は張継青の演じる『牡丹亭』と『朱買臣休妻』を見て、昆劇という古典劇が、身体よりも心を動かし、すべてが凝縮されてゆく純粋演劇であると悟る。しかも、張継青の演技に漂うこの純粋さは、演じる人物に近代的解釈が施されていても決して失われることはない。氏は、彼女が「自らの精神と身体を放下」して「昆劇そのものを体現するにいたった」(37頁)からこそこうした演技が可能となったのだと考えた。彼女の演技は、個性的でも古典の再現でもなく、古典そのものなのである。これには勿論、彼女の人並み外れた努力もあろうが、やはり、氏の言葉を借りれば、昆劇という古典劇の「生理」がどこかで働いていたのではなかろうか。氏は、南京の劇団に所属する彼女のことを「北京にも上海にも、まして日本では現れようのない俳優だ」(37頁)と結論するのである。
張継青から十数年後、伊藤氏は更にもう一つの道があることを見つける。それが前述した涙を流す越劇・趙志剛の道である。本来古典劇が持つ様式性は、そうした強い感情移入を抑制するはずである。古典劇では、演技に心は込めても、役になりきって涙を流すには至らない。それは逆に型を崩すものと見なされかねないからである。にもかかわらず「自覚的に演技しながらなお涙する」(77頁)趙志剛に、氏は近代的な演技術の匂いを嗅ぎつけるのである。伊藤氏によると、趙志剛はまだまだ自分の演技に不満で、その不満は「もっと内面の真実を表現できるはずだ、ということに尽きるらしい」(80頁)。趙志剛は、古典劇の俳優として本来流すべき涙をあえて隠さない。涙を流したから内面の真実に近づくという単純な話ではなく、近づくためににはタブーの侵犯も辞さないという批評性を帯びた演技への志向があるということである。伊藤氏は、趙志剛が「越劇をものりこえて二一世紀の中国古典劇のありかたを創始してゆこうとしている」のではないか、それは「越劇という古典様式をもった近代演劇なのかも」(80頁)知れないと考える。はたして「古典様式をもった近代演劇」などという 演劇が可能かどうかわからない。ただ、こうした言葉の背後に、古典劇のあらゆる可能性を見極めようとうする伊藤氏の願望があることだけは確かである。越劇・趙志剛の道は、昆劇・張継青とは正反対の道である。趙志剛にこうした道を歩ませているのも、あるいは越劇という古典劇の「生理」であるのかも知れない。
さて、昆劇、越劇の次には、見巧者伊藤氏を最もてこずらせている古典劇・京劇について見てみよう。伊藤氏も相当に京劇の舞台を見てまわっているのだが、いくらそれらの感想を集めてみても、京劇の核心を突いたという感触が得られないことに氏は焦だつ。単なる多様性とは異なる本質的なわからなさがつきまとうのである。
例えば、京劇の観客は一体何を求めて劇場に足を運ぶのか。伊藤氏は京劇の俳優と観客の関係が、日本とはかなり異なっていることに気づく。うたをうたっている俳優は、観客の唱和するうたを決して置き去りにせず、「観客の呼吸をはかりつつ、ともに絶頂へと上りつめていく。そのとき客席から自然と発せられる“好!”の声は、歌舞伎の大向こうさんの批評性をもった掛け声とはまったく異質なもの」(204頁)だと言うのである。筆者も同感である。単刀直入に私見を記せば、あの劇場をどよもすような“好!”は、観客の欲望充足(「[石+並]頭好」は充足への期待)の表明である。これは「漢宮驚魂」など場面本位の舞台にかかる“好!”にも、言える。この“好!”をめぐって俳優と観客との間に交わされる黙契こそ、伊藤氏の考える本質的なわからなさの主な要因であろう。それは、京劇が今なお「悪場所」という言葉にふさわしい「物狂おしい熱気」(101頁)を生成し得ていることの何よりの証明であると同時に、京劇の未知の鉱脈の存在をも伝えているからである。伊藤氏が京劇を「『地球』という世界の中で普遍に到達」(216頁)する可能性を秘めた古典劇だと考える 大きな理由もこのあたりにあるに違いない。京劇がわからないのは、まだまだ大きくなる途上にあるから、あるいは生長をやめない「生理」こそが京劇の本質だからかも知れない。
最後に、本書の付録「架空鑑賞記・中国古典劇「手[巾+白]記」のすべて」にも触れておきたい。この「架空鑑賞記」は、新作狂言「手[巾+白]記」の上演経過、それを見る劇作家(中国の事情に疎い日本人)と演出家の会話、そして芝居をよく知る観客とそうでない観客の会話、この三つが三段に組まれて同時進行することにより、中国古典劇の仕組みや見方のノウハウを読者に紙上体験してもらおうという趣向である。どの芸能・演劇も「民族や地域ごとに、観劇スタイルが異なって」おり、「それにふれないで芸能・演劇の紹介が完全になるとは思え」(235頁)ないという伊藤氏ならではの企画。「芝居は見たもん勝ちや」が口癖で、「芸能・演劇に鋭敏な観客を育てるところは劇場の他にない」(235頁)と言ってはばからない著者の面目、躍如である。
(松浦注)中国古典劇という用語は「戯曲」の実態にややそぐわない感があるが、本稿では著者の意を受けそのまま用いた。



(保) 氏 書評 毎日新聞「今週の本棚---批評と紹介」欄 1999.2.14 朝刊


引用者注・(保)の署名は、演劇評論家の渡辺保氏のもの。
著者は上海から一匹の虫を懐中して日本に持ち帰った。体長わずかに三センチ。その音色があまりに風雅だったからである。
中国の演劇、芸能にとりつかれた著者の思いが、この一匹の虫に象徴されている。京劇、昆劇、川劇、その他の地方劇、そして泉州の人形劇。この二十年あまり、著者が見つづけてきた舞台が次から次へと鮮明に浮かび上がる。むろん著者は一介の旅行者、観客に過ぎず、この本もまた一種の旅行記、随筆の体裁をとる。しかしその自由さゆえに、かえって中国の事情、なによりも舞台そのものがよみがえった。その背後には、つねに著者の中国への熱い思いと日本の豊富な観劇体験が生きている。
中でも感動的なのは、泉州の人形劇の秘密を探るところ。自由自在に操られる人形の秘密を考え抜いた著者は、ついに能の世阿弥の言葉にいたり、一本の糸に人形遣いの心を発見する。その発見は人形のみならず、舞台に立つもの一般の秘密に通じる。
中国に知識のない人間にも楽しく読めるところがいい。



杉山太郎 氏 書評・三冊の本 雑誌「幕」1999.1 話劇人社


引用者注・杉山氏の書評は、上海の芸術分野に関する三冊の本、すなわち榎本泰子著『楽人の都・上海----近代中国における西洋音楽の受容』(研文出版)、牧陽一著『アヴァン・チャイナ----中国の現代アート』(木魂社)、それに拙著『上海の舞台』をとりあげたものです。ここでは、『上海の舞台』に関する部分のみを再掲します。
濃厚な中国の芝居小屋の雰囲気
『幕』の読者にとっては、この本が一番気になることと思う。本書は奇書である、と書いた本人が言っているのだから、奇書であるに違いない。
かつて狂言の演者として舞台を勤めていた経験を持つ日本の伝統芸能の研究者であり、話劇人社関西の事務局長という立場からも明らかなような日本でも屈指の中国演劇見者である伊藤希言氏の、79年以後の上海を中心にした中国演劇の劇評を一本に纏めたのが、本書である。
索引が欲しい
先に文句を言ってしまえば、何故このような本に索引をつけなかったのか(そういえば榎本氏の本にもなかった)、またいくら舞台を見たときの時と情況が本文にあるからといって、個々の文章の執筆時、あるいは発表時が明示されていないのは、生物である舞台を扱う書物としては欠陥ではないのか。この二点は再刊、あるいは増訂版を出すときには是非改善して欲しい。せっかく学生に教科書指定しようと思っているのだから。
中国古典劇の架空鑑賞記
本書を「奇書」たらしめている第一は、その付録の面白さである。書評を付録から始めるのは、本書の価値の大きな部分が、細井尚子女史との合作「架空鑑賞記・中国古典劇『手(巾+白)記』のすべて」にあるからと思うからである。 
「中国古典劇」という言い方は気に入らないから以下「戯曲」と呼ぶが、この作品の実体に即していえば、新編川劇『ハンカチ落とし』、「シンデレラ」を中国古典劇に翻案して、上演してしまうという形で、中国の伝統劇の鑑賞の方法を解説したものである。原案伊藤希言、脚色細井尚子、泉州で執筆中の細井に、新作の本を探していた人形劇団のメンバーから本の提供を申込まれたともいう。ストーリーも結構面白く、戯曲のスタイルをよく掴んでいることに感心する。本気で中国の劇団がやっても、ものになるかもしれない。
ここで使われている方法は、演劇の鑑賞方法の解説として有効な方法として、かねて考えていたところと共通する。作品の進行を「シナリオ」と「劇作家と演出家の会話」、「牡丹とキタの感想」の3部構成で追っていくのだが、「シナリオ」の部分では芝居の進行と登場人物の行当、衣装などの舞台上の表現が示される。「劇作家と演出家の会話」では、あまり中国のシステムに詳しくない日本人の劇作家と、中国側演出家の会話により、その演出、美術、俳優の内部的態度などに関する、いかにも中国の舞台作りではこういうことになっているだろうなというような解説がつく。「牡丹とキタの感想」は、中国芝居通の日本人牡丹さんが、ビギナーのキタさんにあることないこと舞台を見ながら解説する。ここから中国の劇場の雰囲気が、濃厚に漂ってくるのが楽しい。
地方色と『戯迷』の雰囲気
ただ、この芝居では、北京で賞を狙うことはできそうもない。中国戯劇節も、梅花賞も駄目だろう。どうも舞台の地方劇色が濃すぎるのである。このあたり、「純化したジャンル『演劇』より、雑然とした『芝居』に愛着する『戯迷』といった雰囲気があ」ると著者に評された細井の持味であり、この『上海の舞台』全体にわたる中国の舞台に対する著者のポジションにも通じる。
しかし私は、新作をやる以上は文化賞や梅花賞を狙わせたい。中国戯劇節にも参加し、全国の演劇人からの称賛を浴びよう。そんな感じで口を挟みたくなる。いずれにせよ、この方法は演劇の鑑賞方法の解説として極めて有効である。ここでは架空の作品であったが、実際の舞台に即して、同じような作業が可能である。思えば我が卒論は、これと近似した方法による『紅灯記』の上演方法の分析であった。
さて、本文について。著者は、私と初めてあったときに、「ここにチケットが3枚ある。昆劇と話劇と越劇である。質においては甲乙ないとき、貴殿はどれを選ぶか」との問を発する。「話劇」が「京劇」であっても同じことである。小百花越劇団のファンクラブ代表などと自称している私は、「迷わず越劇を選ぶ」と答える。それに対して、著者氏は昆劇を選ぶ人である。この「昆劇と越劇」のいずれを選ぶかという問は、どんな演劇を指向するのかという根本的な問題と関わっていよう。
昆劇体験
著者は、83年の南京での張継青によって昆劇を体験する。「決して自分の個性に昆劇を引き寄せようとは」せず、「昆劇という劇種に自らの精神と身体を放下し捧げてしまったすごさ。そうして昆劇と溶けあい、昆劇そのものを体現するにいたったすごさ」を張継青に感じる。張継青は「北京にも上海にも…現れようのない俳優」なのである。
では、上海の昆劇を著者はどう見ているのか。梁谷音、計鎮華たち「上昆の七人」は、「いい意味でも悪い意味でも、彼らは貪欲で」「古典としての昆劇をストイックに体現する努力よりも、一人の俳優を表現することに専念しているのかもしれ」ない。したがって「演じるジャンルが昆劇である必然性はありません。それは古典劇の演者たちが備えるべき気質とは異なる、一代限りの演者の思想です」ということになる。あるいは「昆劇とは極めて無垢で透明で、猥雑さや濁りを濾過してしまった劇種」という思いから、「梁谷音は昆劇のニンではないかもしれない」とまでいう。それが著者の昆劇である。
上海昆劇団の『夕鶴』批判 
この上海昆劇団の『夕鶴』公演に対する評価は、演出家郭小男の作品理解に対する評価、「ただの異類婚姻談にもどってい」て、「原作が持っていた別の可能性を、…梁谷音という女優の可能性も消し去っていた」ということにつきる。
それよりも本稿での興味は、郭小男の昆劇への態度に対する、日本の伝統演劇に深く関わる著者の批判である。郭の「伝統演劇の神髄の表現形式をとりだしたうえで、さらにすすめて伝統的な様式性の呪縛を破る。…私は伝統をしっかりと身につけた俳優に、その殻をやぶって、新しい創造をしていくことをもとめた」との言に対して、著者は「この発想でなされた創造的試みは一度も古典様式の水準を越えることがなかった。本当に様式性は俳優にとって呪縛なのでしょうか。いまの私には、そうとらえる近代個人主義こそ創造性を痩せさせている、と映ります」と答える。
昆劇は現代に無意味か
さらに著者は『夕鶴』のパンフの郭小男の談話をまとめて、「まるで現代という時代に昆劇は無意味な存在である、と断言するようなミもフタもない言い方」であり、「外部の人間ならともあれ、表現に携わった人間が口にすべきではない」ことであり、結局は「昆劇に関係のない私(郭小男を指す)がいる、という告白でしか」ないとする。
古典化を拒否する態度
越劇ファンとしての私は、郭の「伝統をしっかりと身につけた俳優に、新しい創造をしていくことをもとめ」る発想には共感すべき立場にあるが、「様式性は俳優にとって呪縛」だとは考えないから、ここでは著者の批判を採る。「その殻をやぶって」などといわれると、違和感を感じざるを得ない。しかし、一方で、著者が批判する「古典化を拒否する態度」というものには、逆に共鳴する。それは、こちらの越劇を見る根拠だからである。にもかかわらず、著者の郭への批判は、私の越劇『寒情』に対する感覚と通底する。
越劇の見方など、著者の意見に異見があるものもあるが、中国の芝居の見方を改めて考えさせられた。選ぶ劇種の順は著者と私では異なるが、結局見られるものがあれば劇場に行くという姿勢が、本書の評価を優れて信頼できるものにしているのである。
そして、ここでも芸術における技術と近代主義の問題が浮上してくる。



松浦恆雄 氏 1998年読者アンケート 雑誌「中国図書」1999.1 内山書店


例えば、同じ崑劇の女優である張継青と梁谷音の演技の質の違いについてなら、氏を待たずとも、理解にそれほど困難はなかろう。しかし、北京人芸の『茶館』と、日本の新劇俳優の演じる『茶館』の小悪党を比較して、氏は、日本側の演技に北京人芸にはない闊達さを見て取り、こちらの方が老舎の本意に近いのではないかと推測する。これはなかなかの眼力だと感じた。長年舞台で鍛えられた眼の「力に打たれるような感じ」があった。氏の中国演劇に対する過不足のない言葉を自らの観劇体験に照らし、自らの芝居を見る目を鍛え直すことは、本書を読む大きな余得であった。



川村龍洲 氏 「上海の舞台」(らんだむ・のおと183) 雑誌「書源」1999.1 書源社


見知らぬ方から本が届く。不審に思いながら封を開くや、まず真紅の「上海の舞台」というタイトルが眼に飛び込んできた。これ江口先生の字にそっくりだなと、著者名を見る。なんだ(失礼!)伊藤茂氏の本かと納得。それと同時に、ああやはり、という気持ち。これだけの思いが五秒ほどの間に頭を駆け巡った。もちろんタイトルが江口先生の書であることも当然なのである。
書源を毎号読みながらも、伊藤茂氏(号は希言)を知っておられる方は少ないと思う。手元に十号があるが、調和体条幅、かな条幅と半紙課題、調和体半紙、赤居さんのかな半紙課題の各解説欄に(い)としてあるのが伊藤氏である。以前から気になり、江口先生から人となりは伺っていたものの、小生にとっては魅力ある謎の人物であった。初めてお会いしたのは、江口先生のナビオ阪急での個展会場であったと記憶している。山縣さんが伊藤くん、と親しそうに話しかけていたから先輩諸氏には馴染みの方なのだなと思った。勝手な想像と違ってお若いのに驚く。小生の駄文から自然に中国の話になり、泉州の人形劇での神業的なあやつり方にまで話が及び、たいへんな世界があるものだな、と感心したことがある。
その後「驟雨通信」と題する自家版の新聞や、「火鍋子」という同人誌の抜き刷りを送っていただいたが「驟雨通信」にしても「火鍋子」にしてもその名付けからして、しゃれっけの度合いが違う。驟雨はにわか雨だから、定期発行ではないよ、と初手から断っているし、火鍋子は四川料理を代表するとびきり辛い寄せ鍋のことだから、その書き方や内容も半端なものではないことが想像できるというものだ。こうして伊藤氏が神戸学院大学の教授で、芸能演劇の研究者であることを知った。やがて一冊の本に、という予感があった。”魅力ある謎の人”と書いたのは、書源の解説が通説的ではなく、言えばつねにある距離から舞台を見ているような感じの文章だと思っていたからなのである。
さて、この「上海の舞台」は、伊藤氏が観た中国の劇、つまり京劇、地方劇、現代劇、人形劇の(どれも生半可な数ではない)感想なのだが、それを通して中国の政治や経済、歴史や文化、はたまた市井の庶民生活の様子が克明に描き出されている。かつて(戦前の)中国に行く日本人留学生には、二つの”べからず”が前もって言い渡されたそうで、一つは食い物に凝るべからず、もう一つは芝居に凝るべからずであったそうだ。理由は、その魅力の深みにはまったら学問をするどころか、身上まで傾ける破目になるからという理由だそうな。その二つのタブーを堂々と破って楽しんだのは西川寧先生で、同時期に留学されていた日比野丈夫先生は、西川先生に誘われて京劇をよく観に行かれた、と二玄社の西島慎一氏から伺ったことがある。そんなことも思い合わせて読んでみるのも一法か。演劇の専門用語で意味のわかりにくい個所もあるが、底無し沼にひきずり込まれるような魔性的魅力に溢れていて、もし伊藤氏から中国へ芝居を観に行きませんか、と誘われたら、即座に断る自信はない。「団菊ぢぢい」「泉州の提綫木偶」「アフターシアターの勧め」「虫を好む上海」など芝居好きの人な らずとも面白い。
ところで読んでいる途中で気がついたのだが、本文の行尾に、。がはみ出る、いわゆるぶら下がりの、。が一個所もない。おそらくこれは伊藤氏のこだわりであろうと思われ(小生も同癖)、全文組みが終了した時点でぶら下がりの、。をチェックしたに違いないと推察している。江口先生の題字も佐々義人氏の装丁もしゃれている。自分の中国旅行の目的との差を思う反面で、中国を、中国人を、中国文化をこのように見ることもできるのだという興味深い一冊として、書源の読者のお勧めする次第である。