『サマルカンドの金の桃――唐代の異国文物の研究』の講読

唐代中国にどのようなものが伝入していたのかを百科全書的に記している『サマルカンドの金の桃』の引用文献をまとめているのが、このページです。この本を読むときの参考にしてください。また、この本で扱われている項目に関する資料集的なものに育て上げられればいいなぁと、思っています。

 


第1章 唐朝のきらめき

 


第2章 人

奴隷(pp.75-80)

注25)Waley,Arthur(1960)、P162参照
1960 Ballads and stories from Tun-huange:An Anthology(London,1960)。
神戸学院大学には所蔵なし。

注26) Balazsは、中世の中国で奴隷が農業生産に従事することはほとんどなかったという。その点、ローマの奴隷とは全く異なる。しかし、王伊同は、北魏や隋の時代に、功績のあった人物に報償として土地が与えられるようになると、耕作地の労働力として奴隷も与えられたという。Balazs(1932),p.11および王伊同(1953),pp.334-335。
Balazs,Etienne
1932 “Beitrage zur Wirtschaftsgeschichte der T’ang-Zeit,“Mitteilungen des Seminars fur oriebtalishe Sprachen,Vol.35(1932),1-73
神戸学院大学には所蔵なし。

Wang T’ung-Ling
1953 “Slaves and Other Comparable Social Groups During the Northern Dynasties,“Harvard Journal of Asiatic Studies,Vol.16(1953),293-364
神戸学院大学には所蔵なし。

注27) Balazs(1932),p.13.参照
Balazs,Etienne
1932 “Beitrage zur Wirtschaftsgeschichte der T’ang-Zeit,“Mitteilungen des Seminars fur oriebtalishe Sprachen,Vol.35(1932),1-73
神戸学院大学には所蔵なし。

注28)『元氏長慶集』巻23、p.10a-10b。火梡布とは、アスベストのこと。炎州は中国の南方にある土地を表す詩的で神話的な表現。蜀は四川である。奚は満州の一部族。

建安劉 麟 慶礼『四部叢刊正編(元氏長慶集)』36巻(台湾商務印書館、1979年、86頁)。

求珠駕滄海    采玉上荊衡
北買党項馬    西摛吐審鸚
炎州布火浣    蜀地錦織成
越婢脂肉滑    奚瞳眉眼明

注29)Waley(1960),p.162.
Wilbur.C.M『Slavery in China During the Former Han Dynastry,206 B.C.-A.D.25,Field Museum of Natural History, Anthropological Series, Vol.34』
Those who sell their near relatives, or their concubines, or their son is wives, shall be banished.

注30)Pulleyblank(1958).pp.206-207.奴隷は法的に自由な人間(両親)と同等には見なされない。奴隷が主人の犯罪を訴えた場合、その訴えの真偽にかかわらず死刑になったし、良人に暴力をふるっても死刑になった。また良人の女性と通じた場合には、たとえ女性側の同意があったとしても、奴隷は長年の懲役を受けた。Wibur(1943),p.151の注156参照。外国人の奴隷と漢人の結婚は許されず、また漢人の良人の養子になることもできなかった。Balazs(1932),p.158参照。こうした法律の根底には、劣等なよそ者の地が混じることへの恐怖がある。奴隷に関する唐律については、Pulleyblank(1958),pp.212-217参照。

E.G.Pulleybank『The Origins and Nature of Chattel Slavery in China』
神戸学院大学図書館に所蔵なし。

Wilbur.C.M『Slavery in China During the Former Han Dynastry,206 B.C.-A.D.25,Field Museum of Natural History, Anthropological Series, Vol.34』
  a male slave who had peaceable sexual relations with a free woman would be punished with two and a half years’ servitude

Etienne Balaz『Beitrage zur Wirtschaftsgeschichte der T’ang-Zeit』Vol.35
神戸学院大学図書館に所蔵なし。

E.G.Pulleybank『The Origins and Nature of Chattel Slavery in China』
神戸学院大学図書館に所蔵なし。

注31)中村久四朗(1917),p.488。高楠順次郎(1928),p.462。
中村久四朗「唐時代の広東」『史学雑誌』第28巻
神戸学院大学図書館に所蔵なし。

高楠順次郎『Aomi-no Mabito Genkai(779), Le Voyage de Kanshin en Orient (742-754)』
神戸学院大学図書館に所蔵なし。

注32)Barthold(1958),p.236および240。薩曼は突厥の奴隷を売買する許可証を発行しており、突厥の奴隷はフェルガーナにとって重要な輸出品だった。
Barthold.W『Turkestan Down to the Mongol Invasion, 2nd edition』p.236
  The career of a Turkish slave at the Samanid court as follows.

Barthold.W『Turkestan Down to the Mongol Invasion, 2nd edition』p.240
  In the Samanid period the authority of the central Government was still so strong that it was possible to send to the capital veracious and independently written reports, even of the actions of the most powerful of the provincial authorities, the Governor of Khurasan.

(※トランスオクサニアは、アムダリヤ川周辺。Khurasanは、ホラーサーンであり、アムダリヤ川周辺を指す。)


注33)701年の詔勅で禁止されている。『唐会要』巻86(p.1569)
王溥撰『唐会要』下巻、巻86(中華書局、1955年、1569頁)。
大足元(701)年五月三日勅西北縁邊州縣不得畜突厥奴婢

注34)Barthold(1958),p235.10世紀の地理学者Maqdisiの記述から。
Barthold.W『Turkestan Down to the Mongol Invasion, 2nd edition』p.235
  In Maqdisi…from Khorezmia, sables, miniver, …khalanj wood, Slavonic slaves,

注35)Wilbur(1943),pp.92-93.
Wilbur.C.M『Slavery in China During the Former Han Dynastry,206 B.C.-A.D.25,Field Museum of Natural History, Anthropological Series, Vol.34』
Korean girls were in demand as personal maids for wealthy gentlemen, and piracy along the Korean cost and trade in the seaports of Shantung helped supply this fashionable need.

注36)『唐会要』巻86(p.1571)。この2年後、新羅の使節が、山東の海岸で放浪生活を送る新羅人を帰国させるよう唐の皇帝に嘆願した。
王溥撰『唐会要』下巻、巻86(中華書局、1955年、1571頁)。
長寿元(692)年三月平盧軍節度使薛苹奏應有海賊詃掠新羅良口將到當管登萊州界及縁海諸道買爲奴婢者伏以新羅国雖是外夷外稟正朔朝貢府絶輿内地無殊其百姓良口等常被海賊掠買於理實難先有制勅禁断縁當管久陷賊中承前不守法度自收復
已來道路無阻遞相販鬻其幣尤深伏乞特降明勅起令巳後縁海諸道應有上件賊詃買新羅国良人等一切禁斷請所在観察使厳加捉搦如有違犯便準法斷勅旨宜依

長寿…三(694)年正月新羅国使金柱弼進状先蒙恩勅禁買良口使任從所適有老弱者栖栖無家多寄傍海村郷願帰無路伏乞牒諸道傍海州縣毎有船次便賜任帰不令州縣制約勅旨金買新羅尋有正勅所言如有漂寄固合任帰宜委所在州縣切加勘會責審是本国百姓情願帰者方得放回

注)37『旧唐書』巻199a(p.3615d)。
後晉 劉昫等選 第16冊、巻199上、列傳壱四九上(中華書局、1975年、5326頁)。
(貞観)二十(646)年,高麗遣使來謝罪,并獻二美女。太宗謂其使曰「歸謂爾主,美色者,人之所重。爾之所獻,信為美麗。憫其離父母兄弟於本國,留其身而忘其親,愛其色而傷其心,我不取也。」並還之。

注38)Balaz(1932)pp6-7およびPulleyblank(1958)p.207とp.217参照。唐以前には、さらに北方の原住民も奴隷にされた。四川の〓[けものへん+寮]族にいたっては、彼らを捕らえて奴隷にすることが政府の政策だった。王伊同(1953)pp.307-308。

Etienne Balaz『Beitrage zur Wirtschaftsgeschichte der T’ang-Zeit』Vol.35
 神戸学院大学図書館に所蔵なし。

E.G.Pulleybank『The Origins and Nature of Chattel Slavery in China』
 神戸学院大学図書館に所蔵なし。

王伊同『Slaves and Other Comparable Social Groups During the Northern Dynasties』
 神戸学院大学図書館には所蔵なし。

注39)『全唐文』巻50(p.6b-p.7a)。
『全唐文』第一冊(中華書局影印、1983年、p.550)。
徳宋皇帝 罷邕府歳貢奴婢詔
邕府歳貢奴婢使其離父母之郷絶骨肉戀非仁也罷之。

注40)『全唐文』巻81(p.9b-p.11a)。
『全唐文』第一冊(中華書局影印、1983年、p.848)。
宣宋皇帝 禁嶺南貨賣
奴聞嶺外諸州居人與夷獠同俗火耕水耨晝乏墓飢迫於征税則貨賣男女姦人乗之倍討其利以齒之幼壯定估之高下窘急求售號哭踰時爲吏者謂南方之俗夙習爲常適然不怪因亦自利遂使居人男女與犀象雜物倶爲


注)41『旧唐書』巻154(p.3486)および中村久四郎(1917),p364。
後晉 劉昫等選『旧唐書』第13冊、巻154、列傳壱百四(中華書局、1975年、4098頁)。
先是帥南海者,京師權要多託買南人為奴婢,戣不受託。至郡,禁絕賣女口。

中村久四郎(1917),p364
1917 「唐時代の広東」『史学雑誌』第28巻 (1917),
pp.242-258,348-368,487-495,552-576
神戸学院大学には所蔵なし。

注42)『張氏叢詩集』巻6、p18a。銅柱は中国の南の果てを表現する語で、西洋でいうならヘラクレスの門に相当する。金麟(chin lin)は金隣(chin lin)と同じらしい。金隣は、唐代に安南に置かれた要塞で、以前にはずっと南方の土地であるSuvarnadvipaあるいはSuvarnabhumi(金州)一帯を漠然とさした。Peliot(1903)p.226,Luce(1924)pp.151-154およびWheatley(1961a)pp.116-117。
 
張籍『四部叢刊正編 第四十巻 集部 張司業詩集』巻6(臺灣商務印書館、1979年、p18a)。
銅柱南邉毒草春行人幾日到金麟玉鐶穿耳誰家女自抱琵琶迎海神

 Paul Peliot『Le Fou-nan』Vol.3(1903)p.267 Bulletin de l'Ecole française d'Extrême-Orient.
que 遴 lin et 潾 lin ne fussent ici que des variantes de 隣 lin, et qu'il s'agît encore delà Frontière d'or. — Enfin la Frontière d'or est mentionnée dans les œuvres d'Yi-tsing au Vile siècle : Yi-tsing déclare que, parmi d'autres pays, celui de la Frontière d'or (金隣) rend hommage à la cour (cf. Takakusu, A Record of the Buddhist R'ligion, Introduction, p. 17). Le commentateur Kâçyapa, qui vivait au ⅩⅤⅢ siècle, a identifié Kin-lin à 金州Kin-tcheou, Ile d'or, Suvarnadvïpa, lequel nom a été employé deux fois par Yi-tsing g (Chavannes, Religieux Eminents, p. 180, 186) pour désigner Sumatra ou au moins la région de Palembang.
http://www.persee.fr/web/revues/home/prescript/article/befeo_0336-1519_1903_num_3_1_1216

 G.H.Luce『Countries Neighbouring Burma』Vol.14 pp.151-154(1924)
 神戸学院大学図書館に所蔵なし。
 
 Paul Wheatley『The Golden Khersonese:Studies in the Historical Geography of the Malay Peninsula before A.D.1500』(1961)pp116-117
 神戸学院大学図書館に所蔵なし。

注43)Christie(1957a)p.352. 現代クメール語のkrong phnomにあたる。そのためクメール人の国は扶南(Bnam/山)とよばれた。現代北京語では扶南(fu-nan)になってしまっており、そこから中世の発音を推測するのは容易ではない。

Anthony Christie『An Obscure Passage from the Periplus』Vol.19(1957)p.352
 神戸学院大学図書館に所蔵なし。

注44)この概念の名残については、Braddell(1956)p.16参照。
 
 Braddell『Malayadvipa:A Study in Early Indianization』Vol.9(1956)p.16
 神戸学院大学図書館に所蔵なし。

注)45『旧唐書』巻197(p.3609d)。崑崙は、Kurungの音訳として最も一般的なものであったが、語源とわれるクメール語により近い音訳もあった。漢人が、Bnam王の姓だと説明している古龍などである。Pelliot(1904),p.230参照。また、崑崙をPrumやKromなどの土着の形に結びつけ、これがアラビア語のKomrやKamrunに反映されていると考える学者もある。R.Stein(1947),p.238.

後晉 劉昫等選『旧唐書』第16冊、巻197、列傳壱四七(中華書局、1975年、5270頁)。
自林邑以南,皆卷髮黑身,通號為「崑崙」。

Pelliot,Paul“Deux intineraires de Chine en Inde a la fin du viii siècle,”Bulletin de l Ecole Francaised Extreme-Orient,Vol.4(1904),131-413

伯希和 著『交廣印度兩道考』(中華書局、1995年、p.67)。
 「自林邑以南皆拳髪黒身通號爲崑崙」

R.Stein“Le Lin-yi:sa localization,sa contribution a la formation du Champa et ses liens avec la Chine,”Han-hiue,Bulletin 2 du Centre D’Etudes Sinologiques de Pekin,(Pekin,1947)
神戸学院大学には所蔵なし。

注46)『一切経音義』巻81(p.835c)。Peliotによれば、Kgmer(クメール)は中国語の*Kap-mietにあたる。Peliot(1959)p.599。著者のいう「突弥」は*T’uat-mjieで、「骨堂」は*Kuat-d’angである。

『大正新脩大蔵経 第五十四巻[事彙部下 外教部全]一切經音義』巻81(大正新脩大蔵經刊行会、昭和3(1928)年、p.835c)。
上音昆下音論時族語便亦日骨論南海洲島中夷人也甚黒裸形能馴伏猛獣犀象等種類数般〓(白の下にヒ+おおざと)有僧紙突彌骨堂閤蔑等皆鄙賤也國無禮義抄劫為活愛腅食人如羅刹悪鬼之類也言語不正異於諸蕃善入水竟日不死

Paul Peliot『Notes on Marco Polo』Vol.Ⅰ p.599
 the 閤蔑 Ko-mieh (*Kâp-miet)
 http://dsr.nii.ac.jp/toyobunko/III-2-F-c-104/V-1/page/0615.html.ja

注47)Peliot(1959)p.600、Wheatley(1961a)p.183

Paul Peliot『Notes on Marco Polo』Vol.Ⅰ p.600
 A T’ang Sino-Sanskrit vocabulary renders K’un-lun as Skr.Dvipantara(cf.Memorial Sylvain Levi,392-397),meaning something like≪the other continent≫.
http://dsr.nii.ac.jp/toyobunko/III-2-F-c-104/V-1/page/0616.html.ja

 Paul Wheatley『The Golden Khersonese:Studies in the Historical Geography of the Malay Peninsula before A.D.1500』p.183
 神戸学院大学図書館に所蔵なし。

注48)中村久四郎(1917),p.263。中村は『嶺表録異』から引いている。張星烺は『萍州可談』から引く。張は、中世中国の崑崙奴は、アラビア人がアフリカから連れてきた黒人であるとする説を主張する。張星烺(1929),p.96, 同著者(1930),vol.3,p.48-p.81および(1930a)参照。張は主に漢文史料を根拠にこれを主張しており、それらの史料では、漢人たちが自分たちより肌の黒い民族をすべて「黒」と表現し、林邑やひいてはペルシア人まで「黒」とよばれている。これは近現代の入植者が赤道直下の原住民を「黒い」とよぶのに似ている。張は、くせ毛や巻き毛の記録も根拠にしているが、これはインド、インドシナ、インドネシアの人々の一般的な特徴でもある。しかし、ここにみるように、アフリカの黒人は、明らかにインド一帯の人々とは区別されていた。一番の疑問は、12世紀初頭の宋代の文献、『萍州可談』に出てくる黄色い巻き毛(髪巻而黄)の「鬼奴」である。張は英語論文でこの「黄色」を黄褐色(tawny)とあいまいに表現しているが、これでは何もわからない。漆黒の肌をして非常な力持ち、泳ぎの上手い「崑崙奴」とは端的にくべつされた「鬼奴」は、今でもいる黄色い髪のパプアやメラネシアの黒人系民族だったかも知れない。また、その中にはアフリカ系の黒人がいたことも考えられる。鄭振鋒は、唐墓から出土した馬丁俑を、主にその巻き毛から「崑崙奴」であるとしている。鄭振鋒(1958),p.5。この馬丁俑は、腰布あるいは腰巻のようなものをつけている。Mahler(1959),p.84とp.88参照。すでに1911年にHirthとRockhill(p.32)が、「崑崙奴はマレー人あるいはマレー半島やそれより南方の島々のネグリーとであると思われる」と十分な指摘をしている。巻き毛の崑崙奴が次第に黒人のZangと混同されていったとするPelliotの説は正しいと思われる。Pelliotは「つまり、インドネシアのネグリーとは、アフリカの黒人ではないのに僧衹とよばれていたかも知れず、アフリカの僧衹もまた漢人には崑崙奴とよばれるようになったかも知れない」という。
Pelliot(1959),p.600.

PELLIOT,PAUL(1904). p.131-p.413
“Deux intineraires de Chine en lnde a la fin du viii siècle,”『Bulletin de I’Ecole Francaised Extreme-Orient,Vol.4』(1904)
Schlegel cile ce passage,ajoutant que M.groeneveldt declare ne pas connaltre I’origine de ce terme, qu’on rencontre souvent,et qui semble designer des negres.
URL:「Persee」
www.persee.fr/web/revues/home/prescript/article/befeo_0336-1519_1904_num_4_1_1299

PELLIOT,PAUL. (1959)P.493
Notes on Marco Polo Vol.Ⅰ(Paris,1959)
Par un pur hasard,ajoute Schlegel,jai・decouvert en par courant l’histoire du Siam dans les.Livresde la dynastie Souei,gu’il est dit dans l’historie de la Terre Rouge(Siam)gue le roi de Siam habitait dans la cite de Seng-tche(中略)Sil en etait ainsi,conclut Schlegel,l’idee gue le Ho-ling pourrait etre Jave devrait etre rejetee,car il nest pas des esclaves siamoises.

注49)『太平広記』巻194に収められる裴鉶の「伝奇」にある「崑崙奴」の話である。
『太平広記會校』第7冊、巻194(北京燕山出版社、2011年、2878頁)。
「但言、當爲郎君釋解、遠近必能成之。」生駭其言異、遂具告知。磨勅曰・・「此小耳、何不早言之、而自苦耶?」生又白其隠語、勅曰・・「有何難會、立三指者」、一品宅中有十院歌姫、此乃第三院耳。

注50)『龍王女』(1954),p89。張星烺(1930a)はpp.44-59で、『龍王女』の他にも崑崙奴に関する話を集めている。
VARIOUS TRANSLATED BY YANG XIANYI AND GLADYS YANG (1954)『THE DRAGON KING’S DAUGHTER:10TANG DYNASTY STORIES』(SILK PAGODA. p.112) THE KUNLUN SLAVE
Over ten years later,one of Cui’s househojd saw Melek selling medicine in the market at Luoyang.He looked as vigorous as ever.

張星烺(1930a) “The Importation of Negro Slaves to China Under the T’ang Dynasty,”bulletin of the Catholic University of Peking, Vol.7 ( December,1930 ) , p.37-p.59
''After an interval of more than ten years one of Ts'ui's servants, on a visit to Loyang, saw Mo-leh selling
medicinal herbs in the market-place. Time had not availed to change his appearance in the least."
注51)手話については,Burton(1934),volⅠのp.774とp.913にある「アジズとアジザーの話」の脚注を参照。
BURTON,RICHARD F.(1934)
The Book of the Thousand Night and a Night:A Plain and Literal Trahslation of the Arabian Night entertainments,3vols.
神戸学院大学に所蔵なし。

注52)中国語の音では*sang-g’jiか*sang-g’jie。Schegel(1898)はpelliot(1904)、pp.289-291にあるように、これがシャム人を表すのだと証明しようとしたが、無駄であった。Pelliot(1959),p.597-p.603も参照。

SCHLEGEL,G. (1898)
“Geographical Notes,” 『Toung Pao,Vol.9』(1898),50-51,278
神戸学院大学に所蔵なし。

PELLIOT,PAUL(1904). p.131-p.413
“Deux intineraires de Chine en lnde a la fin du viii siècle,”『Bulletin de I’Ecole Francaised Extreme-Orient,Vol.4』(1904)
Schlegel cile ce passage,ajoutant que M.groeneveldt declare ne pas connaltre I’origine de ce terme, qu’on rencontre souvent,et qui semble designer des negres.

PELLIOT,PAUL. (1959)P.493
Notes on Marco Polo Vol.Ⅰ(Paris,1959)
Par un pur hasard,ajoute Schlegel,jai・decouvert en par courant l’histoire du Siam dans les.Livresde la dynastie Souei,gu’il est dit dans l’historie de la Terre Rouge(Siam)gue le roi de Siam habitait dans la cite de Seng-tche(中略)Sil en etait ainsi,conclut Schlegel,l’idee gue le Ho-ling pourrait etre Jave devrait etre rejetee,car il nest pas des esclaves siamoises.

注53)毒女の自然史については,Penzer(1952),pp.3-71を参照。
PENZER,N.M p.493
“poison-pamsels and Other Essays in Folklore and Anthropology” (London,1952)
神戸学院大学に所蔵なし。

注54)814年に四人の少年が贈られた。『唐会要』巻100(p.1782)および『新唐書』巻222b(p.4159c)。815年には5人の少年がやってきた。『旧唐書』巻15(p.3111b),巻197(p.3610a)および『冊府元亀』巻972(p.7a)。818年には少女が2人贈られている。『旧唐書』巻197(p.3610a),『唐会要』巻100(p.1782)および『冊府元亀』巻972(p.7b)

王溥撰『唐会要』下巻、巻100(中華書局、1955年、1782貢)
 元和…八(814)年遣使獻僧祗僮及五色鸚鵡頻伽鳥井異香

「南蠻下」『新唐書』第20冊、巻222(中華書局出版、1975年、6302頁)。
元和八(814)年,獻僧祇奴四、五色鸚鵡、頻伽鳥等。

後晉 劉昫等選『旧唐書』第2冊、巻15、本紀十五(中華書局、1975年、454頁)。
(元和十[815]年)八月己亥朔,日有蝕之。丙寅,訶陵國遣使獻僧祗僮及五色鸚鵡、頻伽鳥并異香名寶。

後晉 劉昫等選『旧唐書』第16冊、巻197、列傳壱四七(中華書局、1975年、5240頁)。
貞觀初(627年),遣使貢馴犀。(中略)(貞觀)五年(631),又獻五色鸚鵡。

王欽若・楊億『冊府元亀 二十巻 外臣部(續)』附 類目索引』巻972(臺灣中華書局、1967年、p.7a)。
 八月訶陵國遣使獻金抵僮及五色鸚鵡頻伽鳥并異香名寶

後晉 劉昫等選『旧唐書』第16冊、巻197、列傳壱四七(中華書局、1975年、5273頁)。
 (貞觀)十三(639)年、遣使進儈祗女二人、鸚鵡、玳瑁及生犀等。

王溥撰『唐会要』下巻、巻100(中華書局、1955年、1782頁)
元和…十三(818)年十一月獻僧祗女及二人玳瑁(王+葢)生犀等

王欽若・楊億『冊府元亀 二十巻 外臣部(續)』附 類目索引』巻972 p.7b(臺灣中華書局、1967年)
 元和…十三(818)年四月…訶陵國遣使進僧耆女二人

注55)『冊府元亀』巻971(p.6a)。インドネシア人は、中国語の「皇帝」をDeva-putraと訳した。高楠順次郎(1896)p.136。

王欽若・楊億『冊府元亀 二十巻 外臣部(續)』附 類目索引』巻971(臺灣中華書局、1967年、p.6a)。
尸利佛誓國王遣使俱摩羅獻侏儒二人價耆女一人

高楠順次郎『A Record of the Buddhist Religion as Practised in India and the Malay Archipelago(A.D.671-695)by I-Tsing』p.136 1896年 The Clarendon press
They(Indians)say that Mangusri is at present living in that country(China).When they hear that one is priest of the Deva-putra, all pay great honour and respect, wherever one goes.
https://archive.org/details/arecordbuddhist01takagoog

注56)Balazsは、黒人奴隷(張の説に従い、彼はこの中に崑崙奴を含めて考えている)は当時の中国の経済活動に対して関与しなかったとみている。巻き毛のマレー人奴隷(そういう姿だったかどうかは定かではないが)、民間家庭の奴隷としてよく使われていたようだが、「僧衹奴」はほんの10年ほどの流行だったと思われる。Balazs(1923),p.13

Balazs,Etienne“Beitrage zur Wirtschaftsgeschichte der T’ang-Zeit,  “Mitteilungen des Seminars fur oriebtalishe Sprachen,Vol.35(1932),1-73
 神戸学院大学に所蔵なし。

注57)Mookerji(1957),p.133.
Mookerji.R.K『Indian Shipping: A History of the Sea 』
神戸学院大学図書館に所蔵なし。

注58)ザンジバル島は、宋代には「崑崙層期国」(現代北京語でK’un-lun Tseng-ch’iと発音する)つまり崑崙(南洋)の層期(黒人)とよばれていた。張星烺(1929),p.97参照。元代黒人奴隷や明代のインドネシア奴隷(スンダから連れてこられた)については、Goodrich(1931),pp.138-139も参照。

1929「唐代非州黒奴入中国考」『輔仁学志』第1巻(1929),pp.93-112
神戸学院大学には所蔵なし。

1931 "Negroes in China,"Bulletin of the Catholic University of Peking,Vol.8(December,1931),137-139
神戸学院大学には所蔵なし。

注59)Mathew(1956),p.52.イタリア領ソマリアのモガディシオやザンジバル保護領のKazerwaで見つかっている。
MATHEW,GERVASE (1956)P.491
“Chinese porcelain in East Africa and on the Coast of South Arabia,”
『Oriental Art, n.s.Vol.2』(Summer,1956),50-55,
神戸学院大学に所蔵なし。

注60)『新唐書』巻34b(p.3736c)。Pelliot(1904),p.349.マレー半島の西海岸沖と思われる。Paul Wheatley教授は、プトレミーのKokko-nagaraとの関係を示唆する。どこかこの地域にあったらしい地名である(1959年10月19日、氏との私的な通信からえた情報)
「蜀爨蠻州」『新唐書』巻43(中華書局出版、1975年、1153頁)。
又西出硤,三日至葛葛 僧祇國,在佛逝西北隅之別島,國人多 鈔暴,乘舶者畏憚之。

Peliot.Paul『Deux itinéraires de chine en Inde a la fin du viii siecle』
 Le nom de Ko-ko-seng-tche reste pour moi mystérieux; peut-être la dernière partie doit-elle être lue 僧祗 seng-k'i; mais ce terme, qui désigne au propre des nègres (2), ne nous est ici d'aucune aide.

侏儒(pp.80-82)
注61)「憔僥」にあてられる漢字はいくつかあり、「憔僚」もそのひとつである。これらは、古代漢語の発音では、*dz'įäu-ngieuおよび*zd'įäu-lieuとなる。憔僥(tsįäu-njau)や鷦鷯(tsįäu-lieu)と比較してほしい。「鷦鷯」は、小さな鳥、つまり鷦鷯(みそさざい)である。語源は、明らかに「とても小さいもの」に由来する。『辞通』巻7(p.104-p.105)。『辞通』は、『国語』から孔子の言葉を引いている。
朱起鳳撰、『辭通』上(上海古籍出版社、1982年、698頁)。
〓[亻焦]僥 音焦堯國名也【國語・魯語】仲尼曰○○氏長三尺短之至也
『國語』魯語下、第五、韋氏解(臺灣商務印書館、中華民國68年、50頁)。
仲尼曰〓[亻焦]僥氏長三尺短之至也
大野峻著、『国語』上、魯語下、巻第五(明治書院、昭和50年、300・302頁)。
仲尼曰、〓[亻焦]僥氏長三尺、短之至也。
仲尼曰く、〓[亻焦]僥氏の長は三尺、短の至りなり。
〓[亻焦]僥氏のたけは三尺で、最短です。

注62)『辞通』巻7(p.105)。中国の歴史にあらわれる小人族の概要については、和田清(1947)参照。『酉陽雑俎』には、体長が3寸しかない侏儒の人腊(ミイラ)を持っていた唐代の収集家の話が載っている。これは僥国の人腊だとされていた。『酉陽雑俎』巻10(p.80)。
朱起鳳撰、『辭通』上(上海古籍出版社、1982年、698頁)。
〓[亻焦]僥 【國語・魯語】仲尼曰○○氏長三尺短之至也
和田清
 1947 「侏儒考」『東洋学報』第31巻(1947)、pp.345-354
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今村与志雄訳注、『酉陽雑俎2』、巻10 物異(平凡社、1980年、203頁)。
人腊。
李章武は、人腊〔ミイラ〕を持っている。長さは3尺あまり。頭も股も肋もそろい、眉目がはっきりしていた。燋僥国の人だという。

注63)『通典』巻187(p.1002b)。
杜佑撰、『通典』第5冊、巻187(中華書局、2007年、5064頁)。
安帝永初中、永昌徼外焦僥種夷陸類等三千餘口舉種内附、獻象牙、水牛、封牛。其人長三尺、穴居、善游、鳥獸懼焉。

注64)Waley(1941),p.168.
WALEY, ARTHUR
1941 Translations from the Chinese (New York, 1941)
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佐久節訳、『白楽天全詩集』第1巻(日本図書センター、昭和53年、281~248頁)
道州民 美賢臣遇明主也
道州民 賢臣の明主に遇へるを美するなり
道州民。多侏儒。
 道州の民、侏儒多し。
長者不過三尺餘。
 長者三尺餘に過ぎず。
市作矮奴年進奉。
 市うて矮奴と作して年ごとに進奉す、
號爲道州任土貢。
 號して道州の任土貢と爲す。
任土貢。寧若斯。
 任土の貢、寧ろ斯の若くならんや。
不聞使人生別離。
 聞かずや人をして生ながら別離せしめ、…
[詩意]道州には単身矮驅の人が多く、身の長の高い者でも、三尺餘に過ぎない。之を買つて矮奴と稱して毎年朝廷に進貢し、之を號して道州の任土貢と云ふ。任土貢といふものは豈此の如きものであらうか。骨肉の親をして生きながら離別せしめ、…

注65)『新唐書』巻194(p.4083c)。
歐陽修・宋祁撰、『新唐書』第十八册、巻194、卓行(中華書局、1975年、5572頁)。
至道州、治民如治家、宜罰罰之、宜賞賞之、不以薄書介意。月俸取足則已、官收其餘。日炊米二斛、魚一大鬵、置甌杓道上、人共食之。州産侏儒、歳貢諸朝、城哀其生離、無所進。帝使求之、城奏曰:「州民盡短、若以貢、不知何者可供。」自是罷。州人感之、以「陽」名子。

注66)Pelliot(1924),p.321及びp.335。Sriboza=Śrībhoja=Śrivijaya.9世紀の終わりごろからのアラビアの旅人たちの記録には、SerbozaあるいはZabedjという国名が登場し、漢文史料には三佛斉(*Sâm-b'iuət-dz'iei)の国名がある。これは、インドの「金の島」にあたる。Wheatley(1961a),pp.177-183.
PELLIOT, PAUL
 1904 “Deux intinéraires de Chine en Inde à la fin du viiiͤ siècle," Bulletin de ľEcole Francaise ďExtrême-Orient, Vol.4 (1904), 131-413.
http://www.youscribe.com/catalogue/presse-et-revues/savoirs/deux-itineraires-de-chine-en-inde-a-la-fin-du-viiie-siecle-article-959152 (p.321, p.334-p.335).
Le nom de 佛逝 Fo-che est aussi écrit 佛誓 Fo-che, et on le trouve ėgalement sous la forme plus complète 室利佛逝 Che-li-fo-che ou 尸利佛誓 Che-li-fo-che (¹).
En 724, au 7ͤ mois de ľannée chinoise, « le roi du royaume de Che-li-fo-che envoie cn anbassada 俱摩羅 Kiu-mo-lo (Kumāra) (¹) pour offrir deux nains,…
WHEATLEY, PAUL
 1961a The Golden Khersonese: Studies in the Historical Geography of the Malay Peninsula before A.D.1500 (Kuala Lumpur, 1961).
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注67)『冊府元亀』巻971(p.6a)。3世紀の漢文史料には、日本のずっと南にある小人の国(侏儒国)が登場する。『太平御覧』巻378(p.4a)にある「魏志」参照。
『册府元龜』第11冊、巻971 外臣部(十六)・朝貢第四(鳳凰出版社、2006年、11239頁)。
七月,吐火羅國遣使亜獻胡薬、乾陀婆羅等三百餘品。尸利佛誓國王遣使俱摩羅獻侏儒二人,價耆女一人,雜樂人一部,及五色鸚鵡。授摩羅折衝,賜帛百疋,放環蕃。
『太平御覧』第2冊、巻378 人事部十九 短絶域人(国泰文化事業有限公司、中華民國69年、1745頁下)。
魏志曰倭南有朱儒國人其長三尺四尺去女王國四千餘里。

注68)『唐会要』巻99(p.1775)および『冊府元亀』巻971(p.5b)。玄奘は、サマルカンドをこの世の楽園だといっている。『大唐西域記』巻1。
王溥撰、『唐會要』下、巻99(中華書局、1998年、1775頁)。
開元初廔遣使獻鏁子甲水晶桮及赿諾侏儒胡旋女子兼狗豹之類十九年其王烏勒伽表請封其子咄曷爲曹國王默啜爲米國王許之二十七年烏勒卒遣使册咄曷襲其父位
『册府元龜』第11冊、巻971 外臣部(十六)・朝貢第四(鳳凰出版社、2006年、11239頁)。
四月,康國王鳥靭遣使獻侏儒一人、馬狗各二。
水谷真成訳、『玄奘三蔵の旅 大唐西域記1』(平凡社、1983年、24頁)。
サマルカンド国(康国)
非常に堅固で住民は多く、諸国の貴重な産物がこの国にたくさんあつまる。土地は肥沃で農業が十分行きとどき、木立ちはこんもりとし花・果はよくしげっている。良馬を多く産する。機織の技は特に諸国よりすぐれている。気候は温和で、風俗は激烈である。

注69)『通典』巻193(p.1024a)にその概要が記載されているが、これは主に『魏略』に拠っている。『太平御覧』巻368(p.4a)も参照。
杜佑撰、『通典』第5冊、巻193(中華書局、2007年、5269頁)。
在康居西北、男女皆長三尺、人衆甚多、去奄諸國甚遠。康居長老傳聞、嘗有商旅行北方、迷惑失道而到斯國。
按比亦在西北、即魏略云短人國是也。
『魏略』
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『太平御覧』第2冊、巻378 人事部十九 短絶域人(国泰文化事業有限公司、中華民國69年、1745頁下)。
魏略西域傳曰短人國在康居西男女皆長三尺衆甚多康居長老傳曰常有商行迷惑失道而到此國國中甚多珠夜光明商渡此國去康居可萬餘里

注70)この伝説は明らかにギリシアが由来で、漢文記録に初出するのは3世紀ごろである。Needham(1959),p.505.ここに引用した伝説は、『通典』巻193(p.1042a)に記載されており、もともと『突厥本末志』から引いたものである。
NEEDHAM, JOSEPH
1959 Science and Civilisation in Chine, Vol. I (Cambridge, England, 1954).
NEEDHAM,『SCIENCE AND CIVILISATION IN CHINA』VOLUME3,SECTION19-25(CAMBRIDGE,1979,p.505).
The story of the battles of the pygmies with the cranes, which occurs in many ancient Greek authors, is first found in the Wei Lüeh of Yü Huan,
a +3rd-century book (the time of Solinus).
ジョゼフ・ニーダム、『中国の科学と文明』第6巻、地の科学(思索社、1991年、10頁)。
古代ギリシアの多くの著書に出てくる鶴と戦う小人の物語は、+3世紀(ソリヌスの時代)の書物である魚豢の『魏略』に初めて見いだされる。
杜佑撰、『通典』第5冊、巻193(中華書局、2007年、5269頁)。
突厥本末記云「突厥窟北馬行一月、有短人國、長者不踰三尺、亦有二尺者。頭少毛髪、若羊胞之状、突厥呼爲羊胞頭國。其傍無他種類相侵、俗無寇盗。但有大鳥、高七八尺、常伺短人啄而食之。短人皆持弓矢、以爲之備。」
『突厥本末志』
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注71)『通典』巻193(p.1041c)。これらの話と古くからある類似の故事については、Hirth(1885),pp.202-204参照。侏儒国の鶴の話は、敦煌発見の白鳥処女伝説にも組み込まれている。Waley(1960),p.154参照。
杜佑撰、『通典』第5冊、巻193(中華書局、2007年、5266~5267頁)。
小人、在大秦之南。軀纔三尺、其耕稼之時、懼鶴所食、大秦毎衞助之、小人竭其珍以報酬。
HIRTH, F
1885 China and the Roman Orient: Researches into Their Ancient and Mediaeval Relations as Represented in Old Chinese Records (Leipsic, Munich, Shanghai, Hongkong, 1885)
http://books.google.co.jp/books?hl=ja&lr=&id=hIECwYbqWlkC&oi=fnd&pg=PR3&dq=china+and+the+roman+orient&ots=xWbDObDy4E&sig=Yymv5SSsq1ubZYl21fnM5cBpbsk(p.202-204)
Under the name of Hsiao-jên (Dwarfs) the Pygmies are described by Ma Tuan-lin (Q 70). “These are in the south of Ta-ts’in. They are scarcely three ch’ih (say 4 feet, Engl.) large. When they work in the fields they are afraid of being devoured by cranes. Whenever Ta-ts’in has rendered them any assistance the way of precious stones to show their gratitude.”
WALEY, ARTHUR
1960 Ballads and Stories from Tun-huang: An Anthology (London, 1960)
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第3章 家畜


第4章 野生生物

疑わしい有蹄類(pp.155-156)
注124)『冊府元亀』巻970(p.12a)および『唐会要』巻100(p.1796)
王欽若等編纂 『冊府元亀』第11冊巻970外臣部(15)朝貢第3 鳳凰出版(2006) p.11231
楊家駱 『唐会要』(下)巻100 世界書局(1982)p.1796
→西蕃突厥獻馬蹄羊、其蹄似馬

注125)『冊府元亀』巻970(p.12a)および『唐会要』巻100(p.1796)中国語では、*b`wat-lanと発音される。
王欽若等編纂 『冊府元亀』第11冊巻970外臣部(15)朝貢第3 鳳凰出版(2006) p.11231
→貞観21(647)年3月、薛延陀獻拔籣鹿、麇毛而牛角、大如〓(鹿かんむりに叚)
楊家駱 『唐会要』(下)巻100 世界書局(1982)p.1796 
→貞観21(647)年3月、薛延陀獻拔籣鹿、麇毛如牛角、大如〓(鹿かんむりに叚)

注126)Brockelmann(1928)、p.42。言語学的な関係について、P.A.Boodbergの示唆を受けている。
BROCKELMANN.C.
1928 Mittelturkischer Wortschantz nach Mahmūd al-kāšgarīs Dīvān lugāt at-Turk(Leipzig,1928)
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注127)Bang and Rachmati(1932)、pp.687-688. この資料については、P.A.Boodberg教授の学恩を受けた。
BANG.W.,and G.R.RACHMATI.
1932 “Die Legende von Qyuz Qayan,”Sitzungsberichte der pressischen Akademie der Wissenschaften(Philosophisch-historische Klasse ,1932),687-724
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注128)Ramstedt(1949)、p.125。突厥語にはqulan(野生の驢馬)もある。Stephenson(1928)、p.22.
RAMSTEDT,G,J.
1949 Studies in Korean Etymology(Helsinki,1949)
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Stephenson,J.
1928 The Zoological Section of the Nuzhatu-l-qulúb of Hamdullah al-Mustaufi al-Qaswīnī (London,1928)
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第5章 鳥

 

第6章 毛皮と羽

そのほかの毛皮(pp.189-190)
注34)*Liəm-źieとよばれた国。この動物の名前は、藍青(*siän-g`iwo)あるいは龍香(*źiang-tsiwo)とされている。

注35)『唐代叢書』巻4に収める『明皇雑録』(p.16b)。
鄭處誨撰/裴庭裕撰;田廷柱點校,『明皇雑録.東觀奏記』,中華書局,(1994),p63
  碧芬出林氏國、乃騶虞與豹交而生、大如犬、碧於黛、香聞數十里、太宗時貢、名曰鮮渠上沮。

注36)Duyvendak(1939),p.402の図1。この説はあまり妥当だとはいいがたい。
DUYBENDAK,J,J.L.“The True Dates of the Chinese Maritime Expeditions in the Early Fifteenth Century,” T`oung Pao,Vol.34(1939),341-412

注37)『新唐書』巻219(p.4146d)および『冊府元亀』巻971(p.4a)。
歐陽修,宋祁撰著,『新唐書』20傳,中華書局,(1975),p6179
  拂涅、亦稱大拂涅、開元、天寶間八來、獻鯨睛、貂鼠、白兔皮。
王鉄若(ほか)編,『冊府元亀』二〇,臺灣中華書局,(1967),p11406
  (唐玄宗先天七(718)年)八月大拂涅靺鞨遣使獻鯨鯢魚睛貂鼠皮白兎貓皮


鮫皮(p.190)
注38)『新唐書』巻43a(p.3733a)
歐陽修 宋祁撰 『新唐書』第4冊巻43上 中華書局(1975)p.1097
潮州潮陽郡、下。本義安郡。土貢(…中略…)蕉、鮫革、甲香、蚺蛇贍、龜、石井、銀石、水馬。
潮陽郡は広東を指す。

『アジア歴史事典』第2冊 平凡社(1984)p.31
『アジア歴史事典』第7冊 平凡社(1984)p.171
東京(トンキン)とは、ヴェトナム北部地方に対する、主としてヨーロッパ人による呼称であり、中国の広東をも指す。  

注39)Schafer(1952)、p.156およびpp.159-160参照
1952 ‘The Pearl Fisheries of Ho-p`u,’Journal of the American Oriental Society,Vol.72(1951)、155-168.
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注40)唐よりずっと早い時期の史料である『南越志』(『本草綱目』巻44、p.31aに引く)には、「鮫鞁は珠があり、刀剣を飾ることができる」と記録されている。唐以降も史料では、同じく『本草綱目』に引く蘇頌が「其の皮で刀靶を飾る」としている。

譯者 鈴木真海 『本草綱目』第10冊 春陽堂書店(1979)
頌曰く、・・・省略・・・その皮は刀靶の飭になる。
時珍曰く、・・・省略・・・鱗皮に珠があって、刀剣の飾にし、また骨や角を細工するに用ゐる。とある。

注41)『正倉院御物図録』(1928-)VIのp.37。石田茂作および和田軍一(1954)、図版25参照。

『平成4年 正倉院展 目録』 便利堂(1992)より
金銀鈿荘唐大刀(金銀飾りの大刀)
銀製鍍金の金具や水晶で飾られた唐様式の大刀である。
把はムク材とし、白鮫皮で包み把頭と鐔は魚々子地に葛形を浮彫にした金具を用い、目釘の座金と懸緒の鐶座の露金具を飾る。

*石田茂作・和田軍一編集『正倉院』毎日新聞社(1954年)より転載


動物の尻尾(p.190)
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第7章 植物

植物 (pp.203-205)

注1) 本書の序章を参照。また、特に『唐会要』巻100(p.1796)も参照のこと。
エドワード・H・シェーファー『サマルカンドの金の桃』「序章」(勉誠出版、2007年、2頁)。
この本の題名『サマルカンドの金の桃』は、ヘスぺリデスの黄金の桃と中国の伝説で西方の国に生えるとされる不老不死の桃、ジェームズ・エルロイ・フレッカーの「サマルカンドの黄金の旅」、‥。しかし、これらの伝説や音楽の中に想像されるだけでなく、実際に金の桃は存在したのである。7世紀に2度、サマルカンド王国が、中国の皇帝に朝貢物として見事な黄色い桃を送った史実があり、「鶏卵ほどの大きさで、黄金のような色をしていたので「金桃」ともよばれた」と記録されている。この王者の桃を実らせる木は、セリンディアの砂漠を越えて、駱駝に乗った外交使節団に運ばれ、長安の宮廷果樹園に植えられた(訳者注:セリンディアとは、オーレル・スタインが使った言葉で、中国を表す「セリカ」と「インド」の合成語。具体的には、トルキスタン東部、タクラマカン砂漠をさす。本書の‥、セリンディアと表記する)。果たしてどんな実がなり、どんな味がしたのか、今となっては想像する由もない。この桃は、それにまつわる伝説ゆえに、神秘性を加えられ、唐代人が憧れ求めてやまなかった異国の品々、未知なるものの象徴となった。
楊家駱主編『唐會要』下 巻一百「雜錄」(世界書局印行、1960年、1796頁)。
貞觀二年六月十六日勅.諸藩使人所娶得漢婦女爲妾者.並不得將還蕃.‥二十一年三月十一日.以遠夷各貢方物.其草木雜物有異於常者.詔所司詳録焉.葉護獻馬乳葡萄一房長二尺.子亦稍大.其色紫.摩伽國獻菩提樹.一名波羅.葉似白楊.康國獻黄桃.大如鵝卵.其色如金.亦呼金桃.伽毘國獻鬱金香.‥
647年とは貞觀21年のこと (『東方年表』、平楽寺書店、1955年、66頁)
康國:中国、隋唐時代のサマルカンドの呼称
『アジア歴史辞典』3(平凡社、1960年、229頁)。

注2) 『増広注釈音弁唐柳先生集』巻17(p.2b)に所収の「種樹郭駝橐伝」。H.A.Gilesの翻訳「Pas trop governer」も参照。H.A.Giles (1923),pp.142-144。
『四部叢刊正編』〇三六「註釋音辯唐柳先生集」「種樹郭槖駞傳」(臺灣商務印書館印、1979年、92頁)。
及び『唐柳河東集』巻17「種樹郭槖駞傳」(中江久四郎出版、1664年、pp.3a-5a)。
郭槖駞不知始何名病僂隆然伏行有類槖駞者故郷人號之駞二聞之曰甚善名我固當因捨其名亦自謂槖駞云其郷曰豊楽郷在長安西駞業種樹凡長安豪富人爲觀游及賣果者皆争迎取養視駞所種樹或移徒無不活且碩茂蚤實以蕃他植者雖窺伺傚慕莫能如也有問之對曰槖駞非能使木壽且孳也能順木之天以致其性焉爾凡植木之性其本欲舒其培欲平其土欲故其築欲密既然已勿動勿慮去不復顧其蒔也若子其置也若棄則其天者全而其性得矣故吾不害其長而已非有能碩茂之不抑耗其實而已非有能蕃之也他植者則不然根拳而土易其培之也若不過焉則不及荷有能反是者則又愛之太恩太勤且視而暮撫已去而復顧甚者爪其膚以驗其生枯揺其本以觀其疎密而木之性日以離矣雖曰愛之其實外之雖憂之其實讎之故不我若也吾又何能爲哉問者曰以子之道移之官理可乎駞曰我知種樹而已理非吾業也然吾居郷見長人者好煩其令若甚憐焉而卒以禍旦暮吏来而呼曰官命促爾耕勗爾植督爾穫蚤繅而緒蚤織而縷字而幼孩遂而鶏豚鳴鼓而聚之撃木而名之吾小人輟飱饔以勞吏者且不得暇又何以蕃吾生而安吾性邪故病且怠若是則與吾業者其亦有類乎問者嘻曰不亦善夫吾問養樹得養人術傳其事以爲官戒也
文中にある漢数字の「二」は、他の『種樹郭槖駞傳』には記載されていない。
Giles,H.A. 『Gems of Chinese Literature, Vol.Ⅰ』(Shanghai, 1923).
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注3) 『説郛』冊212(函106,p.7a),p.7に収める「種樹書』による。
陶宗儀等編『説郛三種』八 「種樹書」「果」(上海古籍出版社、1988年、4902頁)。
桃樹接李枝則紅而甘 桃實自乾不落者各桃裊 柿樹接桃枝則爲金桃 李樹接桃枝則爲桃李

注4) Gari Ledyardがこの本について研究した後の結論である。

注5) 『冊府元亀』巻970(pp.11b-12b),『唐会要』巻100(p.1796),
Laufer(1919),pp.303-304。
王欽若等編纂『冊府元亀』拾壹 巻九百七十「外臣部(十五) 朝貢第三」(鳳凰出版社、2006年、11231頁)。
二十一年正月、龜茲、羊同、‥及婆律膏。三月、帝以遠夷各貢方物、珍果咸至、其草木雜物、有異於常者、詔皆使詳録焉。葉護獻馬乳蒲桃一房、―長二尺餘、子亦稍大、其色紫。摩伽陀國獻菩提樹、一名波羅、葉似白楊。康國獻黄桃、大如鵝卵、其色如金、亦呼爲金桃。伽毘國獻鬱金香、‥既頒賜群臣、京師始識其味。
楊家駱主編『唐會要』下 巻一百「雜錄」(世界書局印行、1960年、1796頁)。
貞觀二年六月十六日勅.諸藩使人所娶得漢婦女爲妾者.並不得將還蕃.‥二十一年三月十一日.以遠夷各貢方物.其草木雜物有異於常者.詔所司詳録焉.
Laufer, Berthold 『Sino-Iranica: Chinese Contributions to the History of Civilization in Ancient Iran, with Special Reference to the History of Cultivated Plants and Products, Field Museum of Natural History, Publication 201, Anthropological Series, Vol.15 no.3 』(Chicago,1919).
Laufer, Berthold 『Sino-Iranica』CHIVE,ONION, AND SHALLOT(成文出版社、1974年、303頁)。及び、杉穎夫 訳『古代イランの文明史への中国の貢献』(新風舎、2007年、pp.152-154)。
内容は同じ注釈の上2冊の書籍と同じ。

注6) 中村久四郞(1917),p.567。原詩は、『全唐詩』函6冊6にある。
「唐時代の広東」『史学雑誌』第28巻(1917),pp.242-258,487-495,552-576
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『全唐詩』函6冊6
『唐代的外来文明』(陕西师范大学出版社、2005年、p.372)。
原诗在《全唐诗》第6函,第6册。译按:原诗题为《送侯判官赴广州从军》。
張籍 『全唐詩』「送侯判官赴廣州従軍」(上海古籍出版、1986年、960頁)。
年少才高求自展将身萬里赴軍門辟書遠到開呈客公服新成著謝恩驛舫過江分白堠戍亭當嶺見紅旙海花蠻草連冬有行處無家不満園

注7) 村上嘉美(1955),p.77。
「唐代貴族庭園」『東方学』第11巻(1955),pp.71-80
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注8) Schafer(1961),pp4-5.
Tu Wan’s Stone Catalogue of Cloudy Forest: A Commentary and Synopsis (Berkeley and Los Angeles, 1961).
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注9) Grigson(1947),pp.79-85.
Grigson, Geoffrey 『The Harp of Aeolus and Other Essats on Art, Literature, and Nature』(London, 1947).
神戸学院大学所蔵なし

53)Historiae Naturalis,巻XXI,第18章。陳臓器は,鬱金は「大秦」すなわちローマに育つという。『本草綱目』巻14(p.40a)。

李時珍著 鈴木真海訳『国譚本草綱目』第4冊 第十四巻(春陽堂書店 1979年 p.564)
  臓器曰く、鬱金香は大秦国に生ずる
  
『プリニウスの博物誌』p.916(中野定雄訳 雄山閣出版株式会社 1986年)
「リュキアでは六、七年経つとよく耕した畑に移植する」

 54) Laufer(1919),pp.309-329.Lauferは,鬱金にまつわる問題,特に薑黄との混同などについてくわしく説明している。『本草綱目』巻14(p.38a)も参照

 ヘルベルト・ロウファー著 杉穎夫訳『古代イランの文明史への中国の貢献』(新風舎、2007年、pp.161)
なおクロッカスとウコンとの間にはさらには多くの混同がある。ウコンには多年生の根茎がありその乾かしたものは交易用のウコンを産しカレー粉の配合や黄色の染料として盛んに用いられた。Memecylon fincforiumも7世紀に早くもサフランの代用品になった。従ってサフランの歴史的研究の1つの課題としてこの問題はいささか混みあっている。

55)『本草網目』巻14(p.40a)。Laufer(1919),p.312はどういう訳か,鬱金は元代以前には中国にはいっておらず使われていなかったという興味深い説を提示しているが、彼の説と矛盾する史料は多数存在する。

李時珍著 鈴木真海訳『国譚本草綱目』第4冊 第十四巻(春陽堂書店 1979年 p.564)
楊孚の南州異物志には『…酒に香を付け得るものだ』とある。
同書のp.565
蠱野の諸毒心腹門の悪気、鬼痣鵶鶻等の一切の臭気を治す。諸種の香薬に入れて用ゐる。
ヘルベルト・ロウファー著 杉穎夫訳『古代イランの文明史への中国の貢献』(新風舎、2007年、pp.163)
実のところサフランはその頃までには中国に輸入されず、また用いられてもいなかったようである。少なくともこの趣旨について元時代より早期の史料はない。

56)于景謙は,この混同について述べているが、何ら新しい見解は示していない。于景謙(1955),pp.33-37
神戸学院大学に所蔵なし。

57) Laufer(1919),pp.322-323, Burkill(1935),pp.714-715.紅花の学名は,Carthamus tinctorius,薑黄Curucuma longa,紫鬱金C.Zedoariaである。また,紫鬱金に性質のよく似たC.aromatisa(春鬱金)もある。

I.H.Burkill  (『A DICTIONARY OF THE ECOMIC PRODUCTS OF THE MALAY PENINSULA 』 MINISTRY OF AGRICULTURE MALAYSIA 2002年 p.471-472 )
「It cannot be grown anywhere near Malaya,but is a rare import with the Arabic names of 'komkoma',or 'komakoma',or rarely'kuma',used in Arabian medical prescriptions,some of which may be read in the Medical Book of Malayan Medicine(Gard.Bull.S.S.6,1930 pp.327,336,351,and 354)」

ヘルベルト・ロウファー著 杉穎夫訳『古代イランの文明史への中国の貢献』(新風舎、2007年、pp.164)
Curucuma属のうち中国とインドシナ半島にはいくつかの種(C.leucorrhiza,C.longa 姜または薑黄 C.pallida,C.petialate,C.zedoaria)がある。

58)『唐解要』巻100(p.1796)。『冊府元亀』巻970(p.11b)では「9月に開花する」の部分が破損しており判読できない。

楊家駱主編 『歴代會要第一期書 第七冊』巻100 (世界書局 1982年 p.1796)
伽毘国獻鬱金香葉似麥門冬九月花開状如芙蓉其色紫碧香聞數十歩華而不實欲種取其根

王欽若編 『册府元龜 校訂本拾壹』 巻970 (鳳凰出版社 2006年 p.1231
伽毘国獻鬱金香、葉似麥門冬、九月花開、状如芙蓉、其色紫碧、香聞數十歩、華而不實、欲種取根

本文では華は咲かないとあるが、こちらでは実はならないとある。(翻訳間違い)

59)『全唐詩』函1冊9巻1(p.10a)に収める盧照鄰の「長安古意」。

『全唐詩』 函1冊9巻1 (上海古籍出版社  1986年)
長安大道連狹斜,青牛白馬七香車。 玉輦縱橫過主第,金鞭絡繹向侯家。
龍銜寶蓋承朝日,鳳吐流蘇帶晚霞。 百丈游絲爭繞樹,一羣嬌鳥共啼花。
啼花戲蝶千門側,碧樹銀臺萬種色。 複道交窗作合歡,雙闕連薨垂鳳翼。
梁家畫閣天中起,漢帝金莖雲外直。 樓前相望不相知,陌上相逢詎相識。
借問吹簫向紫煙,曾經學舞度芳年。 得成比目何辭死,願作鴛鴦不羨仙。
比目鴛鴦真可羨,雙去雙來君不見。 生憎帳額繡孤鸞,好取門簾帖雙燕。
雙燕雙飛繞畫梁,羅幃翠被鬱金香。 片片行雲著蟬鬢,纖纖初月上鴉黃。
鴉黃粉白車中出,含嬌含態情非一。 妖童寶馬鐵連錢,娼婦盤龍金屈膝。
御史府中烏夜啼,廷尉門前雀欲棲。 隱隱朱城臨玉道,遙遙翠幰沒金堤。
挾彈飛鷹杜陵北,探丸借客渭橋西。 俱邀俠客芙蓉劍,共宿娼家桃李蹊。
娼家日暮紫羅裙,清歌一囀口氛氳。 北堂夜夜人如月,南陌朝朝騎似雲。
南陌北堂連北里,五劇三條控三市。 弱柳青槐拂地垂,佳氣紅塵暗天起。
漢代金吾千騎來,翡翠屠蘇鸚鵡杯。 羅襦寶帶爲君解,燕歌趙舞爲君開。
別有豪華稱將相,轉日回天不相讓。 意氣由來排灌夫,專權判不容蕭相。
專權意氣本豪雄,青虯紫燕坐春風。 自言歌舞長千載,自謂驕奢凌五公。
節物風光不相待,桑田碧海須臾改。 昔時金階白玉堂,即今唯見青松在。
寂寂寥寥揚子居,年年歲歲一床書。 獨有南山桂花發,飛來飛去襲人裾。

60)『全唐詩』函11冊4巻2(p.16a)に収める陳陶の「飛龍引」。

 『全唐詩』 函11冊4巻2 (上海古籍出版社 1986年)
長洲茂苑朝夕池,映日含風結細漪。 坐當伏檻紅蓮披,雕軒洞戶青蘋吹。
輕幌芳煙鬱金馥,綺簷花簟桃李枝。 苕苕翡翠但相逐,桂樹鴛鴦恆並宿。

61)『雲仙雑記』巻1(p.7)。

陶敏編 『雲仙雑記』巻1 (三秦出版社 『全唐五代筆記』 2012年)
全鳳凰。周光禄諸妓掠掠髩用鬱金油。傳面用龍消粉。染衣以沈香水。月終、人賞全鳳凰一只。

62)『李太白文集』巻20(p.2a)に収める李白の「客中行」。

『李太白文集』 巻20 (上海古籍出版社 p.457)
蘭陵美酒鬱金香玉埦盛來琥珀光但使主人能醉客不知何處是他郷

『李白全詩集 中巻 復刻愛蔵版』p.383(久保天隋訳 日本図書センター 1978年)
蘭陵の美酒 鬱金香
玉椀盛り来る琥珀の光
但だ主人をして能く客を酔わしまば
知らず何れの処か是れ他郷なるを

63)『李太白文集』巻11(p.11a)に収める李白の「春日独座寄鄭明府」。

『李太白文集』 巻11 (上海古籍出版社 p.293)
燕麥青青遊子悲河堤弱柳鬱金枝長條一拂春風去盡日飄揚無定時我在河南別離以(?)那堪對此當牎牖情人道來音不來何人共醉新甖酒

『李白詩集』p.387-388(筑摩書房 世界古典文学全集 1972年)
燕麦青青として游子悲む。
河堤の弱柳、鬱金の枝。
長篠、一たび春風を拂うて去り。
盡日飄揚して定時なし。
我、河南に在つて、別離久し。
那ぞ堪へむ、此に坐して牎牖に対するに。
情人来ると道いて竟に来たらず。
何人か共に酔わむ新豊の酒。

64)『全唐詩』函9冊5巻9(p.10a)に収める温庭筠の「清朝日」。

『全唐詩』 函9冊5巻9 (上海古籍出版社 1986年)
清娥畫扇中,春樹鬱金紅。出犯繁花露,歸穿弱柳風。
馬驕偏避幰,雞駭乍開籠。柘彈何人發,黃鸝隔故宮。

65)『全唐詩』函8冊9巻1(p.26a)に収める李商隠の「牡丹」。

『全唐詩』 函8冊9巻1 (上海古籍出版社 1986年)
錦幃初卷衛夫人,繡被猶堆越鄂君。
垂手亂翻雕玉佩,折腰爭舞鬱金裙。
石家蠟燭何曾剪,荀令香爐可待熏。
我是夢中傳彩筆,欲書花葉寄朝雲。

第8章 木材

櫚木(pp.231-232)
注26)Burkill(1935)、pp.753-756
A Dictionary of the Economic Products of the Malay Peninsula(London,1935)

5.D.sissoo ,Roxb .A tree which reaches 80 feet in height and seem to be wild only in the foot-hills of the Himalayas ,where its habitat is beside little streams;but it is cultivated in India more extensively than any other tree except teak.
The timber is very durable and seasons well,neither warping ,nor splitting.It is highly esteemed wherever strength and elasticity are required.As a furniture wood and for carving,it is among the very best. (『A DICTIONARY OF THE ECOMIC PRODUCTS OF THE MALAY PENINSULA 』I.H.Burkill   VOLUMEⅠ(A-H)p.767)

1.D.latifolia, Roxb. A tree,attaining 70 feet in heght, found from the foot of the Himalayas southwards in India ,with very close alies beyond the southrn limits of its distribution .Thus in the relativery dry parts of Java,D.sissoides,Grah.,grows,which is so similar and closely alied that it has been identified by Koorders with D.latifolia:Prain,however,says that specimens from Java do not appear to agree exactly with the D.latiforia of northern India,nor with the D.sissoides of southern India,though nearer to the latter.The Andaman from of D.latifolia and a cultivated Singapore specimen were found by him to agree with the northern India plant.
The timber of D.latifolia is a valuable furniture wood known as Rose-wood (one of the many so-called),and as Bombay Black-wood .It is exported to Europe from southern India.It has been tried with success as sleepers,but it is too expensive,and,moreover,already without such a use ,some of the India forests have been overworked.It is used for making agricultural implements.
Nothing is known of the history of the cultivated Singapore plant.Its locality is recorded as Jurong and it may be assumed that some one important it from India.Moreover,as the tree is entered in Abderson’s Index to the Botanic Gardens,Singapore,it can certainly be got to live for some little time in the south of Malaya―we may add―in its true northern India from.
The Japanese D.sissoides,which is almost,if not quite,the same thing,is called by the Japanese‘sana kling’and ‘sana sungu’.The timber is very greatly in demand,and is of a dark bllod red,or dark purple,color;after cutting,upon exposure,it turns a dark brown―perhaps not so dark as the black-wood of upper India,but similar to the black-wood which D.latifolia produces in southern India.The Japanese supplies have been worked considerably for the local market,so that, as the tree takes about two hundred years to produce a good log ,they have scarcely any surplus for export.
Moll and Jansonnius (Mikrogr.d.Holzes Jave,3,1914 p.59)
Have described the minute structure. (『A DICTIONARY OF THE ECOMIC PRODUCTS OF THE MALAY PENINSULA 』I.H.Burkill VOLUMEⅠ(A-H) p.765)

注27)Gershevitch(1957)、
“Sisso at Susa (O Pers.yaka- =Dalbergia sissoo Roxb.),”Bulletin of the School of Oriental and African Studies,Vol.19(1957),317-320

Its timber was used in the construction of vehicles,ship-cabins,chairs,doors,and bedsteads,sometimes in conjunction with,sometimes instead of cedar and cypress wood.

pp.317~320、Burkill(1935)、p.753.
A Dictionary of the Economic Products of the Malay Peninsula(London,1935)

注28)『本草網目』巻35b(p.41b)に引く陳臓器。
(陳)藏器曰く、安南、及び南海に産する。床、几を作るに用ゐる紫壇に似て色が赤い、性は堅好である。(『新註校定 國澤本草網目』 第九冊 果部・木部 春陽堂 p.434~435)

Schafer(1957)、p.132も参照。
“Rosewood dragon’s Blood, and Lac,” joural of American Oriental Society, vol.77(1957),129-136

注29)Schafer(1957)、p.132。
日本の資料を参考にする場合には、「花櫚」が中世中国の場合と同じく、海南産の紫壇もさしていることを念頭に置かなければならない。石田茂作と和田軍一は、著書のp.68で、和名の「花梨」を表すのにこれと同じ字を使っている。従って、正倉院御物で「花梨(花櫚)」が使われているとされるものは、紫壇製ではない場合がある。
“Rosewood dragon’s Blood, and Lac,” joural of American Oriental Society, vol.77(1957),129-136

第9章 食物

第10章 香料

丁香(pp.287-288)

注166)『香譜』巻下に配合方がある。丁子は学名 Carophyllus aromaticus(=Eugenia aromatic)の花の蕾を乾燥させたものである。
宋・左圭 輯 『百川學海』十二 中国書店 中国書店藏版古籍走叢刊 2009年 七丁裏
香之法 蜀王薫御衣法 丁香 セン〓(香に戔)香 沉香 檀香 麝香(巳上各一两) 甲香(三两製如常法) 右件香壔爲末用白紗蜜経煉過不得熱用合和令匀入用之。

注167)陳臓器は、「鶏舌香」と「爪香」を同一植物の異名としているが(『本草網目』巻34、p28a)、果たしてこのふたつが同じ植物かどうかについては、薬学についての記録を残した著者たちにも定かではなかった。このやっかいな問題については、陳臓器以後の中国の薬理学者も討論を続けた。これに結論をつけたのは沈括である。『夢溪筆談』巻26(pp.175-176)。
(宋)沈括著 胡道静校證 『夢渓筆談』(上海書店出版社 世紀出版集團2003年 223頁)
 按《斎民要術》云鶏舌香“世以其似丁子、故一名丁子香”、即今丁子是也。
 新註校定代表者 木村康一、譯者 鈴木真海、『國譯本草網目』第九冊、巻34(春陽堂書店、1993年162頁)
(陳)臓器曰く、鶏舌香は丁香と同種で、花、實が叢生し、その中心の最も大なるものが鶏下であって、撃破すると順理があって解して兩向となり、鶏の舌のやうだ。故にかく名をつけるのであって、乃ちそれが母丁香である。

注168)『本草網目』巻34(p.28a)に引く李珣による。
 新註校定代表者 木村康一、譯者 鈴木真海、『國譯本草網目』第九冊、巻34(春陽堂書店、1993年163頁)
   (李)珣曰く、丁香は東海、及び崑崙國に生ずる。二月、三月に紫白色の花を開き、七月に至って始めて實になる。小なるものを丁香といひ、大なるもので巴豆ほどのものを母丁香といふ。

注169)『本草網目』巻34(p.28a)に引く蘇恭による。
 新註校定代表者 木村康一、譯者 鈴木真海、『國譯本草網目』第九冊、巻34(春陽堂書店、1993年163頁)
   崑崙、及び交州、愛州以南に産する。

注170)『太平御覧』巻981(p.6b)に引く『漢官議』。
(宋)李昉等撰 『太平御覧』(九) 巻九百八十一 (上海戸籍出版社1980年 頁901-643)
雞舌
應劭漢官儀曰墻桓帝侍中刀存年老口臭上出雞舌香興含之雞舌頗小辛螫不敢咀咽嫌有過賜毒薬歸舍夬就便宜家人哀泣不知其故僚友求シン〓(耳に低の右側)其薬出口香咸嗤笑之

注171)『夢渓筆談』巻26(pp.175-176)。
(宋)沈括著 胡道静校證 『夢渓筆談校證』下(俊杯戸籍出版社 1987年 頁829)
是也日華子伝『鷄舌香治口氣』所以三省故事郎官曰含鷄舌香。

注172)『本草網目』巻34(p.28a)に引く『唐本草』にみえる。同書の陳臓器も参照。
 新註校定代表者 木村康一、譯者 鈴木真海、『國譯本草網目』第九冊、巻34(春陽堂書店、1993年163頁)
   (蘇)恭曰く、鶏舌香は樹、葉、及び皮はいづれも栗に似て、花が梅花のやう、子が棗核に似たものは雌樹であって、香に入れては用ゐない。その雄樹は花はあるが実らぬ。花を採つて釀して香にする。
 新註校定代表者 木村康一、譯者 鈴木真海、『國譯本草網目』第九冊、巻34(春陽堂書店、1993年165項)
陳藏器の拾遣に據つて鷄舌を丁香母としてあるが、今考ふるにやはりさうでない。

注173)『唐代叢書』巻10に所収の『食譜』(p.70a)
(明)陶宗儀等編『説郛三種』七 (上海戸籍出版社 1988年 頁四三三九)
食譜  丁子香淋膾

注174)『雲仙雑記』巻3(p.19)。
『雲仙雑記』巻二 馮贄著 (『全唐五代筆記』陶敏主編 三泰出版社 第四冊 2010年三四四五頁)
(十六)嚼鷄舌香。飲酒者嚼鷄舌香則量廣、浸半天回則不醉。《酒中玄》

注175)『本草網目』巻34(p.28a)に引く李珣による。
 新註校定代表者 木村康一、譯者 鈴木真海、『國譯本草網目』第九冊、巻34(春陽堂書店、1993年167頁)
【風ヂョク〓(匿の下に虫二つ)、骨槽勞臭。蟲を殺し、悪を避け、邪を去り、奶頭花を治し、五色毒痢、五痔を止める】

注176) 『本草網目』巻34(p.28a)に引く陳臓器による。
 新註校定代表者 木村康一、譯者 鈴木真海、『國譯本草網目』第九冊、巻34(春陽堂書店、1993年167頁)
【薑汁と共に塗って白髪を抜き去れば、孔中から黒きものを生じ、異常 なものである】

注177) 『本草網目』巻34(p.28a)に引く李珣による。Stuart(1911).p.95も参照のこと。だが山田憲太郎(1959).p.142は、肉桂の精油は歯科治療の、麻酔に使われたので、「丁皮」はインドネシア産の肉桂のことだとする。中国の薬理学者たちは、鶏舌香の木の樹皮だとしている。
 新註校定代表者 木村康一、譯者 鈴木真海、『國譯本草網目』第九冊、巻34(春陽堂書店、1993年171頁)
【歯痛】
Stuart.G.A Chinesisches Materia Medica:Vegetable Kingdom(Shaghai,1911).p.95
Its use as a substitute for the crude drug, and especially its application to aching teeth, is well known and appreciated by the Chinese at the present time.
訳:生成していない薬の代替物としての使用、とりわけ排他への使用は現代でも中国人によく知られていて評価されている。
山田憲太郎 「ペルシャ―アラビア人のダルチニ(dar-cini,シナの木、すなわち肉桂)という商品名について」『桃山学院大学経済学論叢』1の1(1959)、pp.131-150
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欖香(p.280)
注96) 学名Canarium albumあるいはC.pimela

注97) 中国語で「橄欖糖」

注98)『新唐書』巻43a(p.3731b)。「trâm」の古中国語の発音は、*tsiӓmである。
歐陽修,宋祁撰著,『新唐書』四 巻43上,中華書局,(1975),p.1095
 廣州南海部、中都督府。土貢..銀、藤簟、竹席、荔支、躄皮、鼈甲、●(虫偏に冉)蛇膽、石斛、沈香、甲香、詹糖香。

注99) 学名Canarium copaliferum

注100) トンキンでは、trâm trâng(白橄欖)とよんだ。

注101) Crevost(1925),p.28.詹糖香についての詳しい説明は、同書のpp.28-29を参照。
CREVOST,CH.“Catalogue des produits de l`Indocine,”Bulletin Economique de l`Indochine(n.s.,1925),26-30.

注102)『本草綱目』巻34(p.31a)に引用する『唐本草』による。
木村康一[等]新注校定,『新註校定 國譯本草綱目』第九冊 果部・木部,春陽堂書店,(1975),p.222
 恭曰く、詹糖の樹は橘に似たもので、枝、葉を煎じて香にする。沙糖に似て黒いものだ。交廣以南に産し晉安に生ずる。近頃の方に多く用ゐてある。

第11章 薬

第12章 紡織品

第13章 顔料

第14章 鉱物

第15章 宝石

水晶(水精)(pp.387-388)

注47)Bromehead(1945)、p.116およびBall(1950)、p.221.
Bromehead,C.E.N.
1945 “Geology in Embryo(up to 1600 A.D.),”Proceedings of the Geologists’Association,Vol.56(1945),86-134.
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BALL,SYDNEY H.
 1950 A Roman Book on Precious Stones,Including an English Modernization of the 37th Books of the Historie of the World by E.Plinius Secundus(Los Angeles,1950).
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注48)Reischauer(1955a),p.82
REISCHAUER,E.O.
1955a Ennin’s Travels in T ang China(New York,1955).
E・O・ライシャワー著、田村完誓訳 『円仁 唐代中国への旅』(原書房、1984年12月、73頁)。
 さまざまな日本製品を土産物に持参し、それらを贈物に利用した。例えば、銀の装飾を施したナイフ、腰帯、筆のセット、水晶の数珠、抹茶、法螺貝、食用の海草などを含んだ。 

注49)『新唐書』巻221b(p.4153d)
歐陽修・祁撰、『新唐書』第20冊、巻221下(中華書局、1975年、6253頁)。
   武徳二年(619年)、遣使者獻寳帶、玻瓈、水精杯。
『冊府元亀』巻971(p.3aとp.13a)
[宋]王欽若等編纂、『冊府元亀』捨壹巻971(鳳凰出版社、2006年12月、11242・11238頁)。
 外臣部(十六)・朝貢第四
   開元二十八年(740年)・・・十月・・・康國遣使獻寶香爐及白玉環、瑪瑙、水精目藥瓶子。
開元六年(718年)・・・康國王遣使貢獻鎖子甲、水精盃、瑪瑙瓶、駝鳥卵及越諾之類。(史不書月。)
『唐会要』巻99(p1775)。
主編者揚家駱、『唐会要』下(世界書局、中華民國71年12月、1775頁)。
   開元初(713年)、◆遣使獻◆子甲。水精◆。・・・
注50)『新唐書』巻221b(4154d)。Needham(1961),p115も参照。
〔宋〕歐陽修祁選、『新唐書』第二十冊巻221(中華書局、1975年、6241頁)。
   武徳二年(619年)、遣使貢寶帯、金鎖、水精◆、頗黎状若酸棗。
NEEDHAM,JOSEPH(1961)
参考文献にはNEEDHAMの1961年無し

注51)p.38参照。(この38は英語版の原本のページ数を示している)。
日本語訳p.52
 珍しい鳥や鳥の精も皇帝の好む貢物だった。その中に「却火雀」という鳥があった。これは、順宗の即位を祝って贈られた黒いスズメ目の鳥で、火に強かった。つまり、西洋でまちがって「フィニックス」とよばれている中国の伝説の「鳳凰」とちがい、本当の不死鳥だったのである。
 
http://www10.plala.or.jp/cotton-candy/momomi2/maki-2395.htm
きゃっかじゃく(却火雀)
火の中に入れてもまったく燃えることがなく、逆に火を散らし消してしまうというふしぎな鳥。
和漢百魅缶│2010.12.29
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注52)『全唐詩』函10冊1巻3(p.2b)に収める司空図の「遊仙」。
司空圖、『全唐詩』第十九冊巻634(中華書局、1960年4月、7274頁)。
   劉郎相約事難諧。雨散雲飛自此乖。月姊殷勤留不佳。碧空遣下水精釵。

注53)『全唐詩』函6冊1巻(p.7a)に収める欧陽詹の「智達上人水精念珠歌」。
『全唐詩』上(上海古籍出版、1986年10月、863頁)。
 智達上人水精念珠歌
   水巳清清中不易當其清精華極何冝更復加磨拭良工磨拭成貫珠泓澄洞澈看如無星輝月耀莫之逾駭雞照乗徒稱殊上人念佛泛貞諦一佛一珠以為計旣指其珠當佛身亦欲珠明佛像智咨董母訪朱公得之玓〓[王+楽]羣奇中龍龕鷲嶺長随躬朝自守持繊掌透夜来月照紅絛空窮川極陸難爲寶孰說〓[王+車]磲将瑪瑙連連寒溜下陰軒熒熒泫露垂秋草皎晶晶彰煌煌陸離電〓[火+延]紛不常凌眸暈目光芒我来借問修行術數日殷勤美茲物上人視日授微言心静如斬即諸佛。

注54)呉基昱(1959)p.358
“Trois poems inedits de Kouan-hieou”, Journal Asiatique, Vol.247(1959), 349-379
   栄枯巳向生前定、福禍従頭上来
   倫(?)存五常君子節(?)、合爲災處不爲災。

注55)王建「水精」、『全唐詩』第9冊、巻301(中華書局、1960年、3421頁)
   映水色不別。向月光還度。傾在荷葉中。有時看是露。

注56) 韋応物「詠水精」、『全唐詩』第6冊、巻193(中華書局、1960年、1985頁)
   映物随顔色。含空無表裏。持来向明日。的皪愁成水。

注57) 「白胡桃」、『李太全詩集』下巻(日本図書センター、1978年、583頁)
   紅羅袖裏には、分明に見、白玉盤中には、看るも却って無し。
疑ふらくは、是れ老僧、念誦を休め、腕前に推下す、水精の珠。

注58)Smith(1940)p.49
Marlowe’s Imagery and the Marlowe Canon (Philadelphia,1940)
神戸学院大学所蔵なし
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注59)Laufer(1913a)
Notes on Turquoise in the East, Field Museum of Natural History, Publication 169, Anthropological series, Vol.13, no.1 (Chicago,1913)
神戸学院大学所蔵なし
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第16章 金属製品

第17章 世俗の器物

第18章 宗教用品

第19章 書物

宗教書(p.469-p.471)
注41)『旧唐書』巻198(p.3613d)
 [後晉]劉昫 等撰『舊唐書』第十六巻 巻一九一至巻ニ〇〇下(傳)中華書局(p.5307)
 貞觀十年,沙門玄奘至其國,將梵本經論六百餘部而歸。

 貞觀十年,沙門ノ玄奘至ル(ニ)其國ニ(一),將ニ[ニセントス]梵本經論六百餘部而歸ス(一)。

注42)Bagchi(1950)の英訳p.83(原書)及びChavannesのフランス語訳(英訳引用版)
… We are sending you a pair of white cloths to show that we are not forgetful. The road is long. So do not mind the smallness of the present. We wish you may accept it. As regard the Sūtras and Śāstras which you may require, please send us a list. We will copy them and send them to you.”

Xuanzang sent the following reply:
“I learnt from an ambassador who recently came back from India that the great teach- er Śīlabhadra was no more. This news overwhelmed me with grief that knew no bounds-
. . . .
Among the Sūtras and Śāstras that I, Xuanzang had brought with me I have already tr-
anslated the Yogācāryabhūmiśāstra and other works, in all thirty volumes. I should hu-
mbly let you know that while crossing the Indus I had lost a load of sacred texts. I now send you a list of the texts annexed to chance. I am sending some small articles as present. Please accept them.”

注43)Chavannes(1894),pp.39-40.

VOYAGES DES PÈLERINS BOUDDHISTES

maitres. 1 Après qu’il y eut passé plusieurs années, il revint au Ni-po-luno(Népaul). Il vit encore aujourd’hui. Mais il enfreint les règles d’abstinence et ne connait pas bien les livres sacrés. Il touche à la vieillesse.

§12. ― Le maitre de la loi Tao-cheng 2 était originaire de l’arrondissement de Ping. 3 Son nom sanscrit était Tchan-to-louo-t’i-p’ouo(Candradêva)4 . A la fin de la période Tchen-koan 5 , il suivit le chemin des T’ou-fan, et alla visiter le royaume du Milieu. 6 Il arriva au temple P’ou-t’i (Mahâbôdhi) ; il adore tous les tche-ti (caityas) 7 et, quand il eut fini, il étudia dans le temple Na-lan-t’ouo (Nâlanda). Il fut fort honoré et estimé par le prince royal. 8

1. 主人. On verra plus loin (§41 ) que cette expression est la traduction du sanscrit vihārasvāmin. I-tsing nous apprend aussi (§ 52 ) que les vihārasvāmin étaient ceux qui constituaient proprement la communanté, car ils en possédaient les biens indivis et en avaient la jouissanee, tandis que les autres religieux n’avaient droit qu’à la nourriture. Il était fort diffiecile pour un étranger d’être nommé vihārasvām-
in.

2. 道 生.
3. Cf. note 6 de la p.38.
4. 旃 達 羅 提 婆,c’est-à-dire le dèva semblable à la lune. 月 天.
5. De l’an 627 à l’an 649.
6. 中國. Cette expression : royaume du Milieu, dans le style ordinaire, désigne la Chine. Mais les écrivains bouddhiques l’appliquent à la terre sainte du Bouddhisme, qu’ils appelleut aussi la « terre du Milieu », 中 土.
7. 制 底. On appelle caitya les lieux consacrés par les grands événements de la vie du Bouddha. On en comptait huit.
8. 童 子 王. Il s’agit peut-être ici du prince héritier (Youvarâja) ; peut-être aussi faut-il voir dans ce nom celui de ce Koumâra,


VOYAGES DES PÈLERINS BOUDDHISTES

A l’est de ce temple, après douze relains 1 , se trouve le temple royal 2 où l’on suit uniquement le Petit Véhicule(Hinayãna). C’est là que Tao-cheng se fixa et séjourna pendant plusieurs années. Il étudia les trios recueils(Tripitaka) du Petit Véhicule ; il observa avec subtilité la vraie interpretation. Il reunite un gros baggage de livres sancr-
és et d’images et annonça qu’il retournait dans son pays. Il arriva jusqu’au Ni-po-louo
(Népaul), où il tomba malade et mourut. Il avait environ cinquante ans 3 .

§13. ― Le maître du dhyâna Tch’ang-min 4 était originaire de l’arrondissement de Ping 5 .
Depuis le jour où il fit tomber sa chevelure et rejeta l’épingle de tête 6 , ― où il rev-
ètit la robe sombre et renonça aux habits clairs 7 , ― il s’appliqua et ne se laissa


roi de Kàmaroùpa, avec lequel Hinen-tchoang fut en rapports (trad. St.Julien, Ⅱ, 254).
1. Le mot chinois ; 驛 , propt. : relai, est l’équivaleut du sanscrit yójana {瑜 那 繕}. D’après le Ⅰ-ts’ié-king-yn-i, ch. Ⅱ, p.2, il y avait un grand et un petit yójana, l’un de 10, l’autre de 20 kilomètres environ. Les anciennes traductions chinoises d’ouvrages sanscrits rendent le terme yójona par 40 li, c’est-à-dire qu’elles prennent est le grand yójana de 20 kilomètres environ. C’est aussi cette valeur qui est attribuée au yójana par Hinen-tchoang (Cunningham, Anc. geog. of India, t. Ⅰ, p. 571).
2. 王 寺.
3. Littéralement : « il se trouvait à peu près à l’àge où on connaît les décrets (s. e. du eiel) » . Cf. note 2 de la p.36.

4. 常 愍.
5. Cf. note 5 de la p. 38.
6. Cf. note 8 de la p.10.
7. Le blane (kashàya) qui est celle des reigieux (Burnouf, Introd. à l’hist. du Buddhisme indien, 2e éd., p. 160, note).

注44)Chavannes(1894),p.27

1)『涅槃経』:涅槃経とは正式名称『大般涅槃経』の略称名である。パーリ語で書かれた上座部経典長部に属する第16経が大般涅槃経と同一のものとされており、漢訳の長阿含第2経『遊行経』や『仏般泥洹経』(2巻)、『般泥洹経』(2巻)、『大般涅槃経』(3巻)の計7巻の経典がこれに相当する。釈尊の晩年から入滅、さらに入滅後の舎利の分配などが詳細に書かれている。こういったことに基づいて大乗仏教の思想を述べたのがこの『大般涅槃経』の大部分であるとされている。
2)『法華経』:法華経とは大乗仏教の経典「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ(saddharmapuṇḍarīka-sūtra、सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र)」(「正しい教えである白い蓮の花」の意)の漢訳経典が原書として出てきた総称経典である。この経の字を外すと「法華」になるとされているが、これは一般に「ほっけ」と発音する。それぞれの意味はsad=「正しい」「不思議な」「優れた」など、dharma=「教え」「真理」puṇḍarīka=「因果倶時・清浄な白蓮華」、sūtra=「仏の説いた経典」と言ったよう単語一つ一つに意味合いを持ったものとなっている。
3)『金光明王最勝王経』:金光明王最勝王経とは『金光明経』と『最勝王経』の二つを併記した義浄の編纂経典であり、最古の物である漢訳版の経典が5世紀初め(=『金光明経』)、と6世紀初め(=『最勝王経』)に編纂されている。それ以外にもこの経典は漢訳版だけでなく、チベット語訳、ウイグル語訳、満州語訳、蒙古語訳などと言った東アジア地域の諸言語に翻訳されており、この経典が東アジア一帯で影響を及ぼしていた書物であることが分かるのである。日本に伝来した漢訳版が舶載(はくさい)されたのは漢訳版が先に編纂されてから15年後にできた物である。そして、その後20余年後に国分寺の七重塔が納められてから仏教による律令国家の精神的支柱を聖武天皇が詔で発したのである。 『金光明王最勝王経』(奈良国立博物館所蔵)の経典原文[漢訳版・一例]金光明最勝王経序品第一□□□□□□□□如是我聞一時薄伽梵在王舎域鴛奉山頂於最清浄甚涼法界諸佛之境如来□店□大苾□衆九万八千人皆是何軍□□□□伏如大魚王諸渇巳□□諸□□□□巳□盡諸有□得大自在僅清浄□善巧方便智慧荘厳□八□□巳□彼岸其石口真□河着□陳如□□阿□侍□□□婆□波真□□訶□摩具□婆帝□□大□□波優□類封迦□伽耶迦□□提迦□□□子大日□連□□阿□□住於學地如是□諸大□聞各於晡時従宏而超往諸佛□□礼佛是右繞三帀退生一面復有菩薩摩訶薩百千万億人俱有大□□如大龍王名誨□聞衆□知議施戒清浄常聚奉詩忍行精勤姪無量却超諸□□□金現前開□慧門善□方便自在□□□妙神通□得□持降才無量□諸煩拙累淥皆去不久當成一切種智降魔軍聚而撃法□□諸外道令□浄心轉妙法輪□人天衆十万佛土悉巳在厳六趣有情無不蒙益成就大智具是大忍住大慈悲心有大□□力□□諸佛不般涅□□□□心盡来未隙□於二泰□行境□以大善巧化世聞於大師教能敷寅秘密之法甚□□姓皆巳了知無復□成 『金光明王最勝王経』の経典原文[和訳版・一部漢訳版の記載外有り]【巻第1 】序品第1 金光明の妙法、最勝諸法の王は甚深にして得て聞きがたき諸仏の境界なり 我まさに大衆(だいしゅ)のために、かくのごときの経を宣説すべし如来寿量品第2 凡夫は邪見を起こし、我が説く所を信ぜず 彼を成就する為の故に、般涅槃(はつねはん)を示現すバラモン(婆羅門)が質問する。供養すれば功徳があると言われる「仏舎利」の実在するのかと言う質問に対し、釈迦の80歳妙幢に重ねて次のように答えたと言われる。 汝ら、まさに知るべし 般涅槃してありと云うは、これ密意の説なり【巻第2 】分別三身品第3 虚空蔵菩薩が質問する。「如何が菩薩摩訶薩、諸々の如来甚深の秘密において、如法に修行するや」と質問をしたが、この質問に対して虚空蔵菩薩や梵、釈、四天王等全員が一同に座から立って礼拝する説法を行なった。 世尊、もし所在のところにかくのごとき金光明王微妙の経典を講説せば、その国土において、4種の利益があり。如何が4となす。1には国王の軍衆強盛にして、諸々の怨敵なく、疾病を離れ、寿命延長に、吉祥安楽にして正法興顕せん。2には中宮、妃后、王子、諸臣和悦して争うことなく、奸佞をはなれて、王に愛重せられん。3には沙門、婆羅門(バラモン)及び諸々の国人、正法を修行して、病なく安楽にして枉死者なく、諸々の福田において、ことごとくみな修立せん。4には三時の中において、四大調適し、常に諸天に増加守護せられ、慈悲平等にして、傷害の心なく、諸々の衆生をして、三宝に帰敬し、皆願って菩提の行を修習せしめん。これを4種利益のこととなす。夢見金鼓懺悔品第4妙幢菩薩は、この説法を聞いて喜んで帰宅し、夢に「大金鼓」を見たのである。 夜夢中において、大金鼓を見たり。光明晃曜として猶し日輪のごとし。この光の中において、十万無量の諸仏、寶樹の下において瑠璃座に坐して、無量百千の大衆に囲繞せられて、説法をなすを見るを得たり。一の婆羅門(バラモン)ありて桴(フ ばち)もて金鼓(こんく)を撃ち大音声をいだすを見たり。そして翌日、世尊の前で、頌をもって報告する。その報告したものは非常に長く、「金鼓」の功徳を褒め称えるだけでなく、自分の汚辱の生活を懺悔し、「甚深の経、最勝金光明」を演説して罪業を除いたとされる。【巻第3 】滅業障品第5 帝釈(インドラ)が、「過去につくった業障(ごっしょう)罪(ざい)をどのようにして懺悔除滅できるか」と質問する。仏(世尊)はそれに答える。その答えの内容は複雑で難しく、しかも長いもの。最後に、この「妙経典を講読する」功徳を、その国中に、大臣輔相に4種の益あり、としてその説明をする。沙門婆羅門にも4種の勝利がある、としてその説明をする。 もし国土ありて、この経を宣説せば、一切の人民皆豊楽を得、諸々の疾疫なく、商估は往還におおくの宝貨を得て、勝福を具足せん。(p369)【巻第4 】最浄地陀羅尼品第6  無礙光焔菩薩が菩提心について問う。釈迦は長大な段階論を説いたあとで、菩薩を守る陀羅尼を教える。無礙光焔菩薩が頌をもって、釈迦をほめたたえる。大自在梵天王が金光妙最勝王経は計りがたいと述べると、釈迦はこの経を聴聞。受持・読誦すべきことを述べる。 【巻第5 】 蓮華喩讃品第7 仏が、菩提樹神善女天に、妙幢が見たと言う金鼓の夢について教えようとする。過去世に存在していた金龍王についての頌をはじめると、その終わりの方で国王である金龍王は妙幢であると言った。そして金龍王と金光の二子があったと言われる。(以下省略)


注48)『大正新修大蔵経』巻50 ▶ 『宋高僧伝』巻2(p.718-p.719)
唐洛京大遍空寺實叉難陀傳
釋實叉難陀。一云二施乞叉難陀一。華言二學喜一。荵嶺北于❹闐人也。智度恢曠風格不レ群。善二大小乗一旁二通異學一。天后明二揚佛日一崇二重大乗一。以二華厳舊経處會未レ(一)備。遠聞三于闐有二斯梵本一。發レ使求訪井請二譯人一。叉與二経夾一同臻二帝闕一。以二證聖元年乙未一。於二東都大内大遍空寺一翻譯。天后親臨二法座一煥二發序文一。自運二仙毫一首題二名品一。南印度沙門菩提流志沙門義浄同宣二梵本一。後付二沙門禮法蔵等一。於二佛授■《※■a:「言」(ごんべん)に右文字が「巳」》寺一譯成二八十巻一。聖暦二年功畢。至二久視庚子一賀幸二穎川三陽宮一詔レ叉譯二大乗入楞何経天厄■■序■又■■■■■■《※未読一部有り》東都佛授■《※■aと同様の漢字》寺一。譯二文殊授■《※■a》等経一、前後総出二一十九部一沙門波崙玄軌等筆受。沙門復禮等綴文。沙門法賓恒景等證義。太子中舎賈膺福監護。長安四年。叉以二母氏衰老一思二歸慰覲一。表書再上方兪勅二御史霍嗣光一送至二于京輦一。帝屈二萬乗之尊。親迎二於開遠門外一。傾レ都緇侶備二幡幢一導引。仍飾二靑象一令二乗レ之レ疾彌留以二景雲元年十月十二日一。右脅累足而終。春秋五十九歳。有レ詔聽下依二外國法一葬二。十一月十二日於二開遠門外古然燈臺一焚レ之。薪盡火滅其舌猶存。十二月二十三日・門人悲智勅使哥舒道元。送二其餘骸及斯靈舌一還二歸于闐一。起レ塔供養。後人復於二❶茶毘之所一起二七層塔一。土俗號為二華厳三蔵塔一焉
周西京廣福寺日照傅

注49)周一良(1945a),p.264, Bagchi(1950),p.53

注50)『冊府元亀』巻971(p.12a)。
 四月渤海遣其臣公伯計來獻鷹鶻東天竺國三蔵大德僧達摩戦來獻胡■単斯比支等及新呪法梵本雜経論持國論占星記梵本諸方

注51)Bagchi (1950), pp.52-53. この使節については,数ページ前に述べている。
He came back to Nālandā to continue his studies for a further period of six years. He then went to south India and passed some time at Kāñcī as the teacher of the Pallavaking Narasimha Potavarman. He next went to Ceylon and from there accompanied a mission sent by the King of Ceylon to the Emperor of China for presenting to the Emperor a copy of the Mahāprajñāpāramitāsūtra, and other precious objects.

注52)Bagchi (1950), p.54 および Wright (1957), p.32.
He reached Canton in AD 720. In China, he made a number of disciples the most famous of them being the Indian Amoghavajira. Vajirabodhi translated a number of mystic Buddhist works between AD 723 and AD 730. ※錫(セキ)蘭(ラン):Ceylon

注53)『冊府元亀』巻972 (p.6a)。

注54)『唐会要』巻49 (p.864)。745年,長安と洛陽にある「波斯寺」(景教)の由来をはっき
りさせるため,「大秦寺」と改めた。
 貞觀十二年七月詔曰道無常體隨方設教密済羣生波斯僧阿羅本遠將経教來獻上京詳其教旨元妙無為生成立要済物利人宜行天下司郎於義寧坊建寺一所度僧廿一人
天寶四載九月詔曰波斯経教出自大秦傳習而來久行中國爰初建寺因以為名將欲示人必修其本
其兩京波斯寺宜改為大秦寺天下諸府郡置者亦準批

注55)『唐会要』巻49(p.864)
 貞元十五年四月以久旱令摩尼師祈雨
 元和二年正月庚子迴紇請于河南府太原府置摩尼寺許之
 會昌三年勅摩尼寺荘宅錢物並委功德使及御使臺京兆府差官檢點在京外宅修功德迥紇並勒冠帯摩尼寺中書門下條疏奏聞

注56)『新唐書』巻217b (p.4124a)。
[宋]歐陽修 宋 祁撰『新唐書』第19册 巻206至217下(傅)中華書局 (p.6133)
 有司收摩尼書若象燒于道,産貲入之官。
 有司收ムルガ(ニ)摩尼書ヲ(一)若ク象ハ燒カレテ(ニ)于道デ(一),産ヲ(レ)貲入ル(ニ)之官ガ(一)。

 役人は命を受けて摩尼教の経典や偶像のような物を道で焼き、官吏は資産を手に入れた。

※補)前述の漢文から「思忠等以国亡、皆願入朝、見聴、遂罷帰義軍、擢思忠左監門衛上将軍兼撫王傅、 兩稟其奉、賜第永楽坊、分其兵賜諸節度。虜人憚隸食諸道、據滹沱河叛、劉沔阬殺三千人。詔回鶻營功徳使在二京者、悉冠帶之。」と言うような形で続いていることから役人は摩尼教の経典を焼くことで利益を得たのではないかと考えられる。※注1)「有司」:「役人」のことを指す。※注2)「摩尼書」:「摩尼教の経典」を指す。※注3)「象」:「偶像」を指す。※注4)「官」:「官吏」のことを指すが、「有司」とは別の意だと考えられる。